キリスト教簡単講座
少し分かりにくい用語が続いているので、一度まとめて順に解説する。
ただし、基本的なことは事実だがキリスト教そのものの解釈としては少し古い神学(バルト)を自分なりに解釈した部分があり、各教会の教義とは微妙に異なる可能性がある。
仏教の解説として、四諦八正道を中心にしたものは現在日本中にある寺とは無関係に近いのと同様、現在の教会との関係はそれほど深くない。
聖書による啓示がキリスト教の本質には違いないが、ここでは無視している聖母マリアや天使、聖人、クリスマスや復活祭、聖餐をはじめとする各教会の歴史、伝統、教義、美術や文学もキリスト教なのだ。
ユダヤ教 律法 聖書 メシアなどの用語
イエスの生涯、教え その後 福音などキリスト教用語
- ユダヤ人
現在イスラエルの中核をなし、また欧米各地に住んでいる民族。ユダヤ人(Jew)の他にもへブルびと(Hebrew)、イスラエル人(Israeli)などの呼称があるし、それぞれに歴史的な意味がある。明確な定義は非常に困難。
言語はヘブライ語だが、現代ヘブライ語は近年の研究によるもので古代ヘブライ語もラテン語同様礼拝、研究のための言葉になっており、日常生活は居住地の言語をアレンジして(イディッシュなど)使うことが多かった。
古代からキリスト教、イスラム教の源流である独自の宗教を信じ、それによって長い祖国がない時代も固く結びついていた。
古来ビジネスに長けており金融業や宝石業などいくつかの業界を支配する。教育熱心でアインシュタイン、マルクス、フロイトを初め多くの天才を輩出することでも有名。
その妬みもあり様々な陰謀史観で世界の影の支配者として警戒され、迫害されてきた。
もちろん聖母マリア、イエス=キリストもユダヤ人の一人である。
- 古代
ユダヤ人の神話的な歴史では、昔神に深く愛され、アブラハムと神の契約で栄え始めた民族であるユダヤ人は古代エジプトに支配され、奴隷として暮らしていた。
それを神がモーゼを通じて脱出するよう命じ、ユダヤ人たち皆で元々住んでいたと信じる現在のイスラエル周辺(カナンと呼ばれる)に戻り、先住民を滅ぼして定着した。詳しくは映画の「十戒」「プリンス・オブ・エジプト」を参照。なお、この出エジプト(エクソダス)について古代エジプト帝国側の史料による証明はない。
カナンに定住したユダヤ人(このあたりから聖書以外の資料が出てくる)は時にカリスマ的な指導者(士師)に導かれるゆるやかな部族連合から王制となり、ダビデ、ソロモンという有名な王の下エルサレム神殿を建築するなど繁栄したが、王国は紀元前922年頃に北(イスラエル)王国、南(ユダ)王国に分裂、衰退する。
北王国は間もなくアッシリアに滅ぼされ、その住民(失われた十部族)はアイデンティティを喪失し、消滅する。
南王国もアッシリアに圧迫され、バビロニア王ネブカドネザルに指導者層が強制連行される(バビロン捕囚、前582年頃)など様々な帝国にかわるがわる支配されることになる。
だがアイデンティティを失わなかったユダヤ人たちの間で神に対する信仰が深まり、旧約聖書が編纂されてメシア信仰が強まっていった。
だが(マカバイによる一時的な独立はあるものの)自立できない弱者であることは変わらず、結局はローマ帝国の支配に抵抗して反乱(ユダヤ戦争)を起こし、紀元70年頃エルサレムは神殿を含めて破壊され、130年にエルサレムから完全に追放されたユダヤ人はローマ帝国中(現在のヨーロッパからトルコ、アラビア諸国、北アフリカのかなりの部分)に散らばって暮らすことになった。
- 中世
祖国を失い、世界中に散らばったユダヤ人は現在のシナゴーグ組織を作り出してかろうじてユダヤ人としてのアイデンティティを保ち、ミシュナー、タルムードの編纂など法研究を進めつつ商業における中核として活躍した。
キリスト教がローマ帝国の国教になり、勢力を拡大するにつれてキリスト教徒の間に「イエスを処刑した民族」として反ユダヤ感情が拡大し迫害、差別の対象になる。その差別を強く含むイメージを抜け目のなさ、邪悪さ、商人としての能力などの形で表現しているのはやはりシェイクスピアの「ベニスの商人」シャイロックだろう。
イスラム教地域にも多くのユダヤ人がおり、優れた学者であるマイモニデス(Maimonides,
Moses ben Maimon)が活躍するなどその知性と商売上手でむしろ栄えていた。
キリスト教徒はスペインがレコンキスタのついでにユダヤ人を追放するなどユダヤ人に不寛容で、むしろイスラム諸国のほうが経典の民であるユダヤ人、キリスト教徒に対するある程度の保護を与えていた。
中国などにも多少行ったようだが、なぜか東洋ではそれほど栄えなかった。
- 現代
ユダヤ人に対する迫害は「アンネの日記」「夜と霧」などで知られるナチスドイツのホロコーストで頂点に達し、数百万人の犠牲者を出した。
それが安心して暮らせる祖国を求めるユダヤ人のシオニズムを刺激し、第二次世界大戦後ついにユダヤ人たちは強引に中東に押し寄せ、1948年イスラエルを建国。
ただ、それはもうそこで暮らしていたパレスチナ人たちを力で追い出すことでもあり、周囲のイスラム教徒の敵意を買って度重なる中東戦争を引き起こす。また、そのせいでイスラム地域に住んでいた多くのユダヤ人がイスラエルに移住した。
それにはイギリスがユダヤ人、パレスチナ人双方に第二次世界大戦に協力すればパレスチナに国を作ってやる、と二枚舌の約束をした責任も無視できない。
だがユダヤ人は世界中、特に欧米のユダヤ人の資金、情報などの協力もあって戦い抜いてきたし、世界中で活躍している。
- ユダヤ教
ユダヤ人が信じる宗教。
古くから神は世界を創造した神ただ一人、という一神教であり、たとえば神道やギリシャ神話の神々のように多くの神を信じること、神の像を作ることを認めない。
また、その神は神道やギリシャ神話とは違い、特定の土地や太陽、海、天など自然現象、人物の神格化などではない。
モーセがエジプトからユダヤ人を導いたときに授けられたといわれる、神が命じた法(律法)を守る。
それによってユダヤ民族は神から特別な保護を受ける、という選民思想が強い。
キリスト教から見た旧約聖書とタルムードというその注釈書が聖典。
現在はシナゴーグと呼ばれる集会に集まり、ラビと呼ばれる教師が聖書、律法を指導する。様々な宗派があるが、それについて細かい解説はしない。
キリスト教、イスラム教も一神教であり、信じている神は基本的に同一(もちろんユダヤ教の立場からはキリスト教はイエスという人間を神格化した偽神を、キリスト教とユダヤ教から見ればイスラム教はアラーという悪魔を信じているのだが)。バーミヤンの大仏を破壊したタリバーンの蛮行も、ユダヤ教以来の教えの根本、偶像崇拝禁止を忠実に守っただけである。キリスト教、特にカトリックと正教は遠慮なしに像を使っているが・・・歴史的に色々ある。
- 律法
伝説ではユダヤ人がエジプトを脱出したときシナイ山でモーゼが神に授けられた、ユダヤ人が守らなければならない法。
現世の法律であり、同時に宗教の戒律でもある(昔は分離していないのが普通)。
基本は十戒と呼ばれる。(出エジプト20章より)
- あなたはわたしのほかに、何者をも神としてはならない。
- あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。
- あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。(エホバ{ヤハウエ}、エル、エロヒーム、アドナイ、ありてある者、YHWHなどいろいろあるが基本的にユダヤ教の神に名前はない)
- 安息日を覚えて、これを聖とせよ。(ただし、ユダヤ教の安息日は金曜日の日没から土曜日の日没)
- あなたの父と母を敬え
- あなたは殺してはならない。
- あなたは姦淫(悪いエッチ)してはならない。
- あなたは盗んではならない。
- あなたは隣人について、偽証してはならない。
- あなたは隣人の家をむさぼってはならない。
他にも動物を生け贄に捧げるやり方、具体的な刑法や刑事訴訟法、損害賠償、セックスや食物のタブー(近親相姦や同性愛の禁止、豚肉などを食うななど)、穢れの処理(ユダヤ人は特別な食肉処理をしなければならないので、普通にスーパーにおいてある牛肉も食べられない)や祭祀のルール、割礼(男子の包皮を生まれてすぐ切除する。これがなければユダヤ人とは認められない)など非常に広く生活、宗教などを規制している。
「目には目を、歯に歯を」で知られる古代中近東の法体系の影響もかなり受けている。
またイスラム法にも相当な影響を与えている。
- パリサイ(ファリサイ、Pharisees)人
紀元前二世紀からイエスの時代にかけて今のイスラエルで広く起きた宗教運動の担い手。
一人一人が(旧約)聖書を詳しく研究し、モーセの律法を厳格に守るようユダヤ人全体に向けて主張した。
新約聖書においてはその偽善性が強く非難されているが、ユダヤ戦争で神殿が破壊され、神殿での儀礼を指導するサドカイ派が壊滅してから民衆レベルの信仰を支え、現在に続くユダヤ教の基礎を作った。
- パリサイ主義
キリスト教の立場からパリサイ人を非難する言葉。
法、規則を守ればそれでいいという態度。
- サドカイ人
ユダヤ教の中心であるエルサレムにあった神殿を守るユダヤ上層祭司階級。
- 聖書
キリスト教(ユダヤ教の)の聖典。キリスト教から見ると旧約、新約に分かれる。
旧約聖書は古代ヘブライ語(七十人訳と呼ばれるギリシャ語訳が普及)、新約聖書はローマ時代のギリシャ語で書かれている。
ユダヤ教は聖書の旧約の部分(タナク)しか信じていないし、カソリック、プロテスタント、ユダヤ教やそれぞれの分派で認める文書に違いがある。
イスラム教は信じている神そのものは同一だが、旧約聖書をそのまま引き継ぐのではなくコーランの中に(そのままではなく)引用している事に注意。
- 旧約聖書は基本的に神話からの歴史書。
天地創造、アダムとイブ、ノアの箱船を経てアブラハムが神と契約を結び、その子孫がエジプトで出世するまでの創世記、モーセに率いられたユダヤ人がエジプトを脱出、今のイスラエルに戻る旅を描く出エジプト記、荒野をさまようユダヤ人の苦闘を描き、律法を詳しく述べるレビ記、民数記、申命記がモーセ五書と呼ばれ旧約聖書の中核。
他にもサムソンなどのカリスマ的指導者、士師たちやダビデ、ソロモンなど王たちの活躍と衰退を神に従えば繁栄し、異教の神を信じたりすれば負けて衰えるというメッセージをこめて描く歴史、詩篇や雅歌(ラブレター)や箴言(ことわざ)などの文学、そして不信仰ゆえにユダヤに下される天罰とメシアによる救いを予言するイザヤ、エレミヤ、エゼキエルなど預言書からなる。
ユダヤ教の伝統では法(トーラー、モーセ五書)、預言者(ネビイーム)、諸書(ケトゥビーム)に分けられる。
- 新約聖書がキリスト教としての部分。
キリストの生涯と処刑、復活を描く福音書、その後ペテロやパウロが世界宗教としてのキリスト教の礎を築くまでを描く使徒行伝、パウロやペテロなどの使徒があちこちの信者に出した手紙、そして世の終わりを描くヨハネ黙示録からなる。
- メシア
油を注がれた者、という意味。油を注ぐのは古代の戴冠式に当たる儀式で、王を意味する。
支配される民族となったユダヤ人は、いつしかこの支配される運命は(自分たちの弱小ゆえではなく)不信仰からだと信じ、そして今反省して律法と信仰を守れば神は自分たちを助けてくれると信じるようになった。
その具体的な手段として、神が選んだ英雄が現れて奇跡的な力でローマ帝国などの支配者を追い払い、またイスラエルの地を取り戻して独立を達成すると信じるようになっている。
もちろんメシアはユダヤの正統王家、ダビデの子孫でなければならない。新約聖書でもイエスはダビデの子孫とされ、かなり強引な系図がマタイによる福音書の冒頭などにあげられている。
その英雄をメシアと呼び、その出現を待ち望むのがユダヤ教の信仰でもある。本来メシアと最後の審判は無関係というべきだが、預言者によってメシアの性格が異なるため微妙な関係がある。
特にイエスの時代、ローマ帝国の支配に対する不満からメシア待望論が高まり、イエスがそれとみなされたことが十字架の悲劇の原因となった。
- シオニズム
パレスチナ、現在のイスラエルにユダヤ人国家を建設しようとする運動。モーゼが十戒を受けたシオンの山に帰れ、という意味をもつ。
ユダヤ人の間で特に十九世紀末から強まる。
本来のユダヤ教ではメシアを待つべきだが、それ抜きに成功した。
- 反セム主義(アンチ・セミティズム)
主にキリスト教徒の間にある、ユダヤ人に対する差別感情。
セムとはヘブライ語やアラビア語を含むセム語族のことでユダヤ人を指す。
聖書においてイエスを処刑するようピラトに強要したのがユダヤ人である、と書かれていることが始まりとされるがそれだけではなく、イエス以前から広くあった感情。理解しにくい一神教を固く信じて閉鎖的な集団を作り、どこでも都市があるところに多数住み着き、有能な商人として富を集めるユダヤ人に対する嫉妬が敵意、恐怖感に変わっていたのだ。
ホロコーストで頂点に達するが、それまでも数多くの迫害、虐殺事件の歴史がある。
- エルサレム
イスラエルの首都。ユダヤ人にとっては神から約束された地の中心であり、神殿があった神聖な場でもある。神殿のわずかに残った石壁は「嘆きの壁」と呼ばれ、今もユダヤ教徒がひざまずいている。神殿再建は世界大戦を覚悟しなければならないため、まず不可能だが本音ではユダヤ人の悲願。
キリスト教にとってもイエスが主な活動をし、十字架にかけられ、復活した聖地。
のみならずイスラム教にとってもメッカに並ぶ聖地であり、昔から十字軍をはじめ争奪戦が繰り広げられてきた。現代の中東戦争、そして現在のイスラエルにおける自爆テロと報復の応酬も本質はその争いである。どちらの指導者も神の都、エルサレムについて妥協したら暗殺はまず避けられないのだ。
- 預言者
予言とは区別される。予言は単に未来のことなどを占いなどで予知することだが、預言はユダヤ教(とキリスト、イスラム教)の神が人の口を通じて言う言葉である。預言者は超能力者や占い師のような技術者ではなく、単に神の原稿を棒読みさせられるアナウンサーに過ぎない。
アブラハムやモーゼなど、神話時代の人物も預言を行ったが多くの預言がなされたのは王国時代からそれが崩壊してからである。イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなど預言者はユダヤ人たちの頽廃、不信仰を非難し、その罰として王国が滅んで外国の支配下に置かれると警告、そのためにすべきことは軍事力の拡大ではなくユダヤ人全体がもう一度神を信じることだと主張した。そしてユダヤ人たちが征服されてからは、天罰を反省して信仰を取り戻せば神はもう一度メシアをつかわしてユダヤ人たちを助け、独立国を復活させると希望を与えた。
イエスも世界の滅亡、エルサレムの崩壊(ユダヤ戦争の後づけ預言?)などを預言した。またマホメッドはイエスを預言者の一人と認め、また自分が最後の預言者であると主張してイスラム教を築いた。
以上ざっとユダヤ教周辺の歴史を用語集の形でさらってみた。
イエス時代のイスラエルの政治について少し補足する。
当時、すなわち紀元前後はローマが共和国から帝国になる過渡期である。そのシステムの完成に当たって大陸を結ぶ要地に住み、反抗的であり、ローマ世界中で強い力を持つユダヤ人の扱いはローマにとって頭を抱える問題であった。
ローマは巧妙にも、ユダヤ王家の正当な子孫とは別にヘロデ大王をユダヤの王として立て、その力でかなりの自治と信教の自由を認めつつユダヤを支配した。ヘロデ大王の死後、後継者争いの影響で王国は分裂、かなりの部分がローマの直轄になった。
そしてローマ軍がエルサレム近くに駐屯し、また一種の代官として総督職を置いた。
またエルサレムにある神殿とその指導者である長老たち(サドカイ派)も強い権威、権力を持っていた。
だが民衆の間では不満があり、メシア待望論が強かった。
それは最終的に、イエスの死後ユダヤ戦争という破局につながるのである。
イエスの生涯、教え
イエスの誕生・・・聖母マリアの処女懐胎、厩での誕生などクリスマス神話は皆ある程度知っているだろう。イエス=キリストはキリスト教では紀元とされるが、研究ではその数年前にエルサレム近郊のベツレヘムで生まれた。
イエスは三十歳前後で家族を捨て、まず親戚でもある洗礼者ヨハネの宗教運動に参加する。
洗礼者ヨハネは「悔い改めよ、天国は近づいた(マタイ2-2)」と預言し、多くの人々を水で清め(キリスト教の入信儀式、洗礼)て罪を払い落としていた。近年の研究ではエッセネ派というユダヤ教分派に属していたともいわれる。
そしてイエスはその教団も離れて一人荒野に行き、四十日四十夜の断食をして悪魔の誘惑に勝った。
それから有名な「心の貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
哀しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。(マタイ5-3,4)」
から始まり、「主の祈り」「右の頬を打たれたら左の頬も向けなさい(ルカ6-29、マタイ5-39.40より)」など有名な言葉を含み、偽善的な祈りなどを非難した「山上の垂訓」といわれる説教を行った。
そして病人を治すなど多くの奇跡を行い、定着することなくあちこち回りながらペテロをはじめ十二使徒を選んであちこちにつかわし、広く宣教を行った。
その宣教の旅の中、パリサイ人との対立が起き、拡大した。
律法を言葉通り遵守することをひたすら求めるパリサイ人と、その偽善性を非難し、本当に大事なこと・・・信仰と隣人愛を強調するイエス。
パリサイ人はイエスに殺意を抱き、イエスは死を覚悟、自ら預言しつつわかりやすいたとえで新しい教えを説き続けた。奇跡も起こしたが、それを強調することはせずむしろ隠そうとした。そして自分がメシアなのか、神の子なのかという問いは巧妙にはぐらかし、ごく近い弟子以外には答えなかった。
このパリサイ人との対立に、イエスの教えの重要な本質がある。
パリサイ人はとにかく形を重視した。いかに多く(公衆の前で)神に寄付し、生贄を捧げ、安息日などの律法を守り抜くかがなにより大事であり、救いの道だった。内心は問題ではなく、行動だけが問題だった。
だがイエスはそれを公然と嘲笑した。ただし、決して律法を否定するわけではない(マタイ5-17など)。律法の心を求めたのだ。
まず「『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲を抱いて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである(マタイ5-27,28)」「すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出てくる。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。これらの悪は全て内部から出てきて、人を汚すのである(マルコ7-21〜23)」と内心の罪、偽善を厳しく非難した。
そして「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これが一番大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている。(マタイ22-39,40)」と信仰と隣人愛を内面から尽くすことが律法の本質であり、律法の一字一句を守ることが大切なのではなく信仰と隣人愛に尽くせば自然に、まるで平面幾何学の全ての定理がたった五つの公理から導かれるように律法は守られ、その人は救われると主張した。
しかも、イエスが主張する隣人愛は従来の・・・当時の世界の常識とは大きく異なる。
本来のユダヤ教にあった隣人愛とは、同じユダヤ人を指す言葉である。ユダヤ人以外は基本的に人ではない。それは他の民族でも同じであり、基本的に自民族だけが人で他民族は人ではない。
これは重要なので関係聖句全文を引用する。ルカによる福音書第10章29〜37節(改行は筆者)
すると彼は、自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った。「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。
イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下っていく途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。
するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通っていった。同様に、レビ人(ラビ、祭司一族)もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通っていった。
ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れていって介抱した。
翌日、デナリ(お金)二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。
彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。
サマリヤ人とは古代のユダヤで王国が分裂したことで、正統なユダヤ人からは差別されるようになった人々である。
つまり、異民族であっても何の見返りも期待できなくても、無条件に行う隣人愛こそ本物であるということだ。
また山上の垂訓などでは「敵」さえも隣人として愛し、許すよう命じている。また罪人や当時低く見られていた女性、子供、嫌われている帝国徴税請負人、厳しく差別されていたらい病人(ハンセン氏病患者)も尊重し、同じく隣人として扱った。
この平等で普遍的なメッセージこそキリスト教が世界宗教として広まった一番の力である。
そして基本的には私有財産を放棄し(ただし現代の新しい宗教とは異なり、イエス自身や教団に寄付させるのではなく文字どおり捨てるか貧しいものに施すよう命じた)、イエスに従い神を信じて税務署の抜き打ち調査を待つように天国の到来(福音書では最後の審判のイメージがあるが、他にも様々な意味がある)を待つよう宣教した。
また、政治と宗教は別だと考えていたらしい。イエスの敵は税金をローマ帝国(カイザル)に払うべきかどうかイエスに聞いた。
払うべきといえばローマに反発する庶民の支持を失い、払うべきでないといえば反逆罪で告発、死刑にできる絶体絶命の罠である。
それに対し「これは、だれの肖像、だれの記号なのか」。「カイザルのです」と彼らが答えた。するとイエスは彼らに言われた、「それなら、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい(ルカ20-24〜25)」とイエスは罠をかわした。
ただ、政治と宗教を分離し、内面を重視するイエスの宣教は軍事的な英雄、政治的な独立を求めるメシア信仰とはずれている。
現世にあまり関心を持たず、突然来る破滅と裁き、復活後の救いを待って過ごすことと、一人の英雄が立ち上がってユダヤ人をローマ帝国から解放し、神の王国を築く・・・この二つはまったく違うものだ。
そして、ユダヤ人たちはパリサイ人、サドカイ人を含めて後者、それもダビデ王家の正当な子孫で厳密に律法を守る保守的な英雄を願い、待っていたのである。
最終的にはそのずれによってイエスは神を汚す異端としてエルサレムで捕らえられ、ローマ帝国に対する反逆者としてローマの総督ピラトに引き渡されて十字架の死刑を受けた。その際も、聖書によればピラトはイエスを地上の権力、ローマ帝国の統治には関心を持たない無害な哲学者と理解していたが、扇動された民衆の声に押し切られたということになっている(が、そのくだりはローマ帝国と決定的に対立したくないキリスト教徒の都合で福音書編纂者が書いたものといわれている)。
その後
キリストの逮捕と同時に弟子たちは逃げ、教団は解散して本来ならイエス=キリストの名はユダヤ史の中の、ユダヤ戦争を前にしたメシア運動のエピソードとして歴史に埋もれる運命だった。
現にローマ帝国の公式記録はもちろんユダヤ史で最も重要なヨセフスの本にも、イエス本人の名や活動はろくに記されていない・・・ゆえにイエスは実在しないという説さえあるぐらいだ。
だが、イエスは復活した。またはそう弟子たちが信じ込み、活動を続けた。
前者はキリスト教徒の確信であり、後者は信者でない合理主義者の歴史家の見方だ。
その復活を信じるかどうかがキリスト教を信じるかどうかだ。それについてはそれぞれの判断、いや決断と・・・神の恵みがあるのみだ。
そして復活したイエスはペテロを中心とした使徒たちに会い、間もなく昇天した。
その直後、ペテロたちは特別な霊(聖霊)に憑かれ、教会という共同体を作って奇跡治癒を含めた本格的な活動を始める。
迫害もあったが、当時安全な交通網と豊かな大都市を確保していたローマ帝国のインフラを最大限に活かしてまず世界中のユダヤ人に、そしてユダヤ人以外の全ての人に福音を伝えた。
そして、パウロが教団に加入した。本来彼は正統派のパリサイ人で、深い信仰ゆえキリスト教を迫害していたが、ある日復活したイエスに出会い熱心なキリスト教徒となった。
彼はユダヤ人だがローマ市民権も持ち、ギリシャ語にも堪能で名文の手紙を多数遺している。またユダヤ教とギリシャ哲学の深い知識を持ち、ユダヤのローカルな世界とローマのグローバルな世界の両方を理解していた。しかもローマ帝国のインフラがあったからこそだが広い地中海周辺を歩きまわって拷問、難船など数々の苦難に耐え抜き、決してひるまず雄弁に福音を述べ伝え、教団を組織した鉄の心身の持ち主だった。
そして、教義においても天才だった。彼がいなければキリスト教はユダヤ教の分派として歴史に埋もれていた可能性が高い。
パウロはまず、これはペテロもその方向に動いていたが福音の宣教をユダヤ人だけのためからあらゆる民族に向けるよう、方向転換をした。
彼はイエスの律法批判を推し進め、割礼などユダヤ人の根本的な儀礼すらキリスト教団には必要ないとして偶像崇拝などの禁止のみを定めた。これによって他民族を取り込んで世界宗教の道を歩み出し、そして結果的にはユダヤ人と袂を分かつことになる。
そして、イエスの復活を意味付けたのもパウロである。
単に死人が復活した、ということがパウロによって、人間の全ての罪の許し、死の終わりという新しい希望となったのだ。
上述の、イエスが人の内心の悪さえ許さなかった事を思い出してみよう。
「だれでも、情欲を抱いて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである(マタイ5-28)」この新しい律法を守れる男などいるだろうか。女性も、いかなる性も同じだ。他の罪も同じ、殺してやりたいと思っただけで殺人を犯したと同じ、人のものを欲しいと思っただけで盗んだと同じなのだ。
そう、だれも許されないのだ。だれも律法を本当に守ることなどできないのだ。だれもが死刑に値する罪を犯しているのだ。
そして、仮にできるだけ律法を守り、祈り、いいことをし続けたとしよう。生涯悪いことを思わなかったとしよう。でもそれはあくまで天国に行く、救われるためだ。わかりやすく言うと閻魔大王相手の内申点稼ぎでしかない。これほどの偽善はあるだろうか。それが許されるはずがない。
また、どんなに善人であろうと善行を積もうと、原罪を負っていることには変わりないのだ。
その絶望からの唯一の救いが、自力ではなく他力・・・神の恵み、啓示としてのイエスの死と復活である。イエスは十字架にかかることで生贄として全ての人の罪を引き受けて代わりに処刑され、そして復活した。
それによって全ての人間は罪から救われたのである。「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである(ロマ6-6)」。もう人はみじめな罪の奴隷ではなく、光り輝く霊の体をもつイエス=キリストの体の一部(肢体)なのである。
なお、信者がイエスの復活にあずかる象徴が教会の礼拝で行われる聖餐(パンとワインを配り、イエスの肉、血と信じて食べ、飲む儀式)である。
その救いは決して律法を守った報酬ではなく、神の恵みである。買ったり勝ち取ったりしたものではなく、何の資格もないのにもらったものである。
だから、もう罪から救われたのだから一度死んだと思って迷い恐れることなくこれまでの罪の生活を悔い改め、神と神の子イエスに感謝し、イエスの一部として教会に参加し、どんな迫害を受けても福音を伝え、隣人愛を実行すべきだ。
何をやっても偽善、というのは気にしなくていい。その罪は神が許している。とにかくできるだけ祈り、隣人愛に励めばいいのだ。それは神の新しい、そして変わらない命令である。
そして、これはメシア信仰の意味を見事にひっくり返してもいる。本来の、独立のための政治軍事的英雄としてのメシア像ではなく、人間の魂を救うより大きな救世主、神の子としてのイエス像を創造、メシア信仰を見事に転換して利用し、乗り越えたのだ。
これまでの、律法を行動として守れというのは神との古い契約(旧約)である。それはそれで間違っていないが、それだけでは救いには至らないし偽善に陥る。また、なにより人間が自分の意志、行動で救われるという傲慢でもある。
だが、イエスはその生、活動、そして十字架と復活という生涯全体で新しい契約(新約)を啓示した。それは心の中を重視し、人間の自力ではどうにもならない罪からの他力による許し、神による救いを宣言する代わりに信仰と隣人愛を律法の本質として命ずるものだ。
これがパウロが創りあげたキリスト教の本質である。
その後キリスト教はペテロ、パウロ共に殉教するなど迫害を受け、屈せずついにローマ帝国の国教となり、東西に分裂して正教会と教皇制のカトリックが確立し、カトリックに対する反論と聖書回帰からプロテスタントが生まれて・・・詳しくは触れないが、現在重要な教派としてバチカンのローマ教皇を中心にしてイタリア、フランス、スペイン、ドイツ、中南米諸国を中心に広がるカトリック、アメリカ、北欧などを中心に広まりWASP(アングロサクソンプロテスタント)として強い影響力をもつプロテスタント、東欧からロシアに広がっているギリシャまたはロシア正教、そしてイギリスの国教会がある。
それぞれの歴史、教義について詳しくは各自調べるとよい。
- 福音
いいニュース。例えば死刑囚にとって無実の証拠が出てきて真犯人が逮捕されたというような、余命数ヶ月の患者にとって特効薬が発見されたというような喜ばしい知らせ。
基本的にはキリスト教用語で、イエスと使徒が伝えているキリスト教の布教そのもの。
具体的にはイエスの復活により人の罪が許され、イエスを信じれば復活後の永遠の命が保証されるという知らせである。もう死ぬことを心配しなくていいのだからこれ以上いいニュースはあるまい。
新約聖書を構成する福音書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四人の使徒(とされている)がイエスの死語かなりたってからイエスの生涯、イエス自身や弟子の言動などを書いたものである。イエス自身は書き物を残していない。マタイ、マルコ、ルカは共通の資料を用いているとされ、内容も共通点が多いため共観福音書と呼ばれる。ヨハネによる福音書はやや思弁的でギリシャ哲学の影響が指摘される。
- 使徒
イエスの弟子。本来はペテロをはじめとした十二使徒だが、それからキリスト教が始まる歴史の中パウロなど生前のイエスを直接知らない人も参加する。
本質的には今のクリスチャン、特に宣教師はみな使徒のはずだが、初期教会のメンバー以外は普通そうは呼ばない。
- 聖霊
精霊との誤変換に注意。後のキリスト教で父、御子、聖霊と三位一体の一つとして信じられる神の霊。
「突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起こってきて、一同が座っていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分かれて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。(使徒行伝2-2,3)」と描写される。これに満たされると何ヶ国語でも自由にしゃべれるしどんな病人、身体障害者でも癒せる。今も奇跡はあまりないがクリスチャン全てにとどまって信仰を生み、宣教の言葉を内から湧き出させる。
- 原罪
ユダヤ教、キリスト教に強く見られる、全ての人が生まれながらに罪人であるという観念。
その罪の根本はアダムとイブが神の命令に背いて禁断の木の実を口にしたこと。その罪が今の人間一人一人にまで受け継がれ、それゆえに全ての人は死に定められているという考え。
キリスト教はその原罪からの解放を宣言した。
- 最後の審判
ある日、突然神の力によって世界は一瞬で滅びる。同時に人類誕生以来全ての死人を含めた全人類が神の法廷に立たされ、裁かれて天国行きと地獄行きに分けられる、という信仰。
ユダヤ教にこの概念があるかについては非常に微妙。本来のユダヤ教は死後については否定的だが、旧約聖書の預言、ダニエル書に最後の審判が描かれている。
イエスもそれほどはっきりとではないが、最後の審判を預言している。パウロら使徒の世代でははっきりした概念になり、ヨハネ黙示録で結集。
イエス、ペテロ、パウロらキリスト教初期の人はすぐにでも・・・自分が生きているうちに起きると確信される、今のんきに普通に暮らしているどころではない差し迫った事態だと確信していた。それがなかなか起きないことからキリスト教の微妙な変化が起きるのだが・・・
イスラム教の根本教義でもある。
- 復活
死者が生き返ることだが、キリスト教では非常に特別な意味がある。
この世で行われる復活はイエスなどが起こした奇跡と、そしてイエス自身の復活。
イエスの復活は他の復活とは異なる。イエスが生き返らせたラザロなどの死人は寿命が尽きれば死ぬが、イエスはもう永遠に死ぬことはない。
そして、最後の審判のときに復活する全ての死者も、もう死とは無縁だ。神、イエスに救われたからであり、救われなかった者は第二の死・・・永遠の炎に放り込まれるからだ。
- 三位一体
キリスト教の教義。父(神)、神の子イエス、聖霊の三者は別でありつつ一つの存在の別の面でもあり、一体であるとする。
イスラム教はこれを多神教として攻撃する。
参考文献
「シリーズ世界の宗教 ユダヤ教」M.モリスン、S.F.ブラウン著、青土社
「キリスト教神学概論」佐藤敏夫著、新教出版社
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