奇妙な味の…ドラゴンクエスト1のあと

長くなるので、以下のプロローグ以降はテキストファイルで。(UTF-8)

 瓜生がとある難民キャンプの医療テントで地面に寝転び、目覚めたのはリムルダールの宿だった。
 すぐにリムルダールだと思い出した。ケンジャニンニク入り熊肉鍋の臭いは、十数年の時を経ても忘れられない。狭い宿の一室、隅々にまで染みついている。
 いや、彼がこのアレフガルドのある世界を去ってから、二つの年月がある。一つは、彼の故郷〈現実世界〉での年月。受験勉強をやり直し、医学部に再入学し卒業、研修を経て独立し、NGOに入って仕事に慣れるまでの、およそ十年。〈現実世界〉では彼は三十すぎだ。
 だが、その歳月に、幾度も彼は異界を旅している。時には短期間、何年もかける冒険もあった。
 睡眠不足がたまっていたのでスポーツドリンクを飲んで二度寝し、起き出したのは夕方近く。
 祭りだった。
 体を濡れタオルで拭って着替え、装填済みのサイガブルパップを革ポンチョの下に隠して宿の廊下に出、少し周囲の騒ぎに耳を傾ける。
(リムルダールなのは間違いない、他にこんな臭いはない。でもどうしてこんな騒ぎ? あとここは、いつだ?)
 窓から見える広場では、ばかでかい土鍋が強烈なニンニク臭を放ち、泡を上げている。瓜生の口につばがわく。
 祭りの光景は、前も見た。ゾーマを倒して光を取り戻し、各地を巡っていた時に。
「さすが勇者ロトの子孫!」
「ローラ姫を取り戻し、竜王を倒した勇者!」
「勇者ロトを称えよ!伝説はよみがえった!」
「新たな勇者に!」
 誰かの声に、万歳の声が唱和する。
(ロト、ミカエラの子孫?それとも、ゾーマが出る前、その前の伝説?)
 瓜生の故郷とは違い、コンビニで新聞の日付を見るという手も使えない。今の王様は何世ですか、と聞くのも、自分が異人だと言うようなものだ。
(ま、考えるよりうろつくか)
 と、まずカウンターに向かって、麻袋に入れた五キロほどの塩、文様を潰した100gの金地金を渡す。わざわざビニール袋から麻袋に移したのだ。
「宿代だ。ついでに両替も頼む。楽しい祭りだな」
「とろけてないし砂が混じってない塩だ、ガライの海焼き塩みたいだな。この金も、重くて」塩をなめ、金地金を噛む。「柔らかい。いいな、二百ゴールドにはなるよ。宿代引いて百七十だ」
 と小袋が差し出される。
 瓜生の世界で標準の金地金純度はこの文明レベルでは絶対に不可能だが、気がつくはずもない。
「ちょっと見せてみな」と近くにいた老人が、瓜生の渡した塩をなめてみる。「わしはな、昔々、竜王が暴れ出す、前にも手広く商売しとった」
 ため息をつき、ぬるいビールをあおり、瓜生にも渡す。
 一口飲んで、(酒がぬるい、ということはヒャド系呪文を使える人がいないのか)瓜生が寝ぼけ頭を働かせる。
「海や旅の扉が封じられる前、ルプガナの岩塩を売ってた。ありゃあいい塩だった……紅くって、ごつごつして、紅水晶みたいにきれいだった。ただ削ってランプにしただけでも高く売れた」老人が微笑む。
「アレフガルドには岩塩鉱がないからな」瓜生が軽く言う。
「塩商人なら知ってるはずだが、この塩、どこで手に入れたのかね?」老人の目が輝く。商魂は衰えていないようだ。
「サマンオサ」チリ産岩塩と、捨てたビニール袋には書いてあった。この言葉でどんな反応をするか、じっと目を見る。老人は知らないようだ。
「聞いたことがない土地だな。でも、どこかの伝説で聞いたことがあるようだ」
「あちこち回ってるからね」と、適当に話を合わせ、そこで腹が鳴った。
「おっと、腹の虫が催促してるな。せっかくの祭り鍋だ、たっぷり喰おう」と、老商人や数人の若いのとともに、広場の中央にいって熱々の肉と細長い草が煮えた椀を受けとった。
「久々だな」すすると、体の中から熱くなる。誰の口からも、もう鼻がバカになるほど強烈な臭いがでている。
「どこから逃げてきたんだい?まさかドムドーラ?」
「あちこちから逃げてくる人が多いからね、でもそれもおしまいさ。勇者様が竜王を倒したんだから」
 楽しげな笑顔。ゾーマを倒した時と同じ。
 瓜生はぼろを出さないようあまり口をきかず、周囲の会話を聞いていた。
「ずっと信じていたよ。ゾーマにやられ闇の中にいた時みたいに、勇者様が闇を打ち払ってくれる、精霊ルビス様の創ったアレフガルドの大地に、昇らぬ日はないって」
 瓜生には待望の情報だった。
 一休みしていた吟遊詩人が、また歌い出す。そのメロディーが、ビートルズの『ヘイ・ジュード』と、ガブリエラの自分では気づかない鼻歌……ネクロゴンドを復興する時に難民が歌うのを聞いて、テドンの民謡とわかった旋律をつなげたものだと瓜生は気がついた。

『永遠に続く闇 光があったことを知らぬ子
絶望と悪夢 大魔王の家畜
闇の空からきたりし流星 その名ミカエル
囚われの精霊ルビスを助け 虹の橋を魔の島に架け
大魔王ゾーマに剣を突き立て 空に光を蘇らせる
ミカエルに三人の仲間あり
一人 岩をも抜く大力 悲しみをぬぐう聖者ラファエル
一人 傾城の笑みに無限の魔力 麗しき賢者ガブリエラ
一人 影のごとく力を隠し 計り知れぬものウリエル
いずこより来たり いずこに消えるか
宴の夜に姿を消し その姿誰も見ることなし
三つの神武装は王家に戻り 光の玉とロトの印も
勇者ロトの称号 永遠に語り継ぐ』

 静かに歌が歌い終わる。何人かが合わせて歌っている、知られた歌のようだ。
 瓜生は頭を抱えたかったが、まあ演技を続けていた。

「そしてゾーマが斃れて百余年、悪の化身竜王が……」

 吟遊詩人が即興で歌を作ろうと苦慮する。

「ロトの武具と光の玉 ロトの印とローラ姫
すべてを奪い軍を滅ぼし 砂漠の都を焼き尽くす
またも失われた希望 残るはロトの伝説のみ
ロトの子孫を名乗る少年 ミカエルの肖像面影在り
伝説をしのぐ剣技と魔法 竜を斬り美姫を救う
ガライの墓の底を極め 廃墟に眠るロトの鎧
沼地に隠れたロトの印 先祖の通った虹を渡り
竜王にロトの剣を突き立て 光の玉を取り戻す」

 即興の曲、韻が崩れるのを、なんとか取り戻して歌にする。誰もが励ますように喝采していた。

「アレフガルドの王座を譲ると 王は自ら玉座を降りて
少年笑って首を振り わたしの治める国があるならば
わたし自身で探したいのです」

 喝采とどよめきが上がる。

「ローラ姫は救い主たる 少年の腕に飛びこんで
どこへでもともに旅立つと 王城挙って結婚式……」

 なかばしどろもどろに、大ニュースを歌にした吟遊詩人が一礼する。
 喝采の嵐とともに、硬貨が飛んだ。

 瓜生は両替した硬貨を一つ詩人に投げて、椀の汁を飲み干した。
 それから、懐かしいリムルダールの街を歩く。前に訪れた時同様、破壊と荒廃の跡もある。
 教会を訪ねると、そこは祭りの本部でもあり、老人のたまり場ともなっていた。
 神父に話を聞こう、と金地金を手に歩いていると、隅で眠っていた、生きていることが信じられぬほど老いた老人が突然目覚め、瓜生を見つめる。
「ウリエル!勇者ロトの子孫、勇者アロンドを助けよ!禁じられた大陸を解放し、王国の礎を築け!それがこのたびの、そなたの使命じゃ!」あとはそのまま、わけのわからない言葉をつぶやき、涎を流すのみだ。
「昔は優れた予言医だったのだが」痛ましげに、一人の男がボロ毛布を直してやる。
「でも、勇者アロンド様に、なにか忠告してたよ。役に立ったんじゃないの?」別の男が聞く。
「こんなしなびたじじいに、なにができるんだよ」と、通りかかった女がいい、広場の鍋のために熊肉を運び出した。
 瓜生は神父に金地金を寄付して離れ、軽く息をついて振るまい酒を干す。
 湖を隔てた対岸には難民キャンプの炊煙も上がっていた。
「ちょっと見てみるか」と、ぶらりと町を出て橋を渡り、かつて上の世界に戻る道を聞いた、世界樹の若木があった森に向かう。
 だが、難民キャンプとなっていたそこで、見覚えのあった森は根こそぎ切り倒され、薪と焼かれていた。
 多くの人は街で宴に参加していて、ここに残っているのは小さい子供や病人、それを看ている人ばかりだ。
 瓜生は深くため息をつく。難民キャンプ周辺の森林破壊と希少種絶滅は、最近の故郷での仕事でも散々見ているし、能力がばれない程度に軽減してはいるが。
(世界樹を大切に育て守っていれば、アレフガルドの人々にとっても強力な守護神になっていたものを……)
 だが、よく見れば、世界樹の目印にもなっていた大岩には深い竜の爪痕と、炎の跡もある。岩の沸点を超える高温は、竜の口からでなければそうは出ない。
(その竜王とやらも、だからこそ先に破壊したんだろう)
 悪臭が、テントからあふれ出す虫たちが、その中の惨状を確信させる。昨日までも、彼はその中にいたのだ。
 すぐにでも昨晩までと同じく治療を始めたい気持ちと、使命が胸の内で争う。始めたらきりがない。使命がある。あの老人のうわごとは、魔力の流れから真の予言だとわかっていた。
 だが、ここでも自分の手があれば助かる患者は、彼がいなければ死ぬ患者は何十人もいる。前回と違って無免許医でもない。
 彼は一人しかいないのだ。
 一瞬目を閉じ、決断する。一度岩陰でいくつか準備をするとキャンプに戻り、大きく息を吸い、腹から大声で叫んだ。
「旅の僧侶だ。回復呪文が間に合っていない人は呼んでくれ!」
 テントから、自らも片脚を失っている人が顔を出す。
「少しでも、呪文が使えるのか?」
 絶望と希望が入り混じった表情。祭りの明るさと、多くの死を見送った目。
 ゾーマを倒した直後、いやというほど見た目。
 瓜生は頷き、呪文を使えることを示す手ぶりをすると、慣れたおぞましい臭いが充満するテントに飛びこんだ。
 二週間放置した肥溜めに鼻先をつけて嗅ぐよりひどい。
 昨日までも、同じ臭いを嗅いでいた。平気だ、と言い聞かせても、地面もわずかな寝台の床も、毛布も天幕の壁も天井もくまなく埋め尽くし、這い回り、飛びまわる膨大な虫。
 現代の地球では、少なくとも瓜生の周囲では、虫はDDTの一撃で消え失せる。彼の人命重視法律軽視は同僚や上司に評判が悪いが、彼は常に無視する。
 顔にとまり全身に這いのぼる虫を、床のわずかな窪みに溜まる汚物と膿で汚れた毛布の強烈な臭いを心から切り離す。
「ベホマラー!」
 瓜生が唱えた呪文が、一瞬で百人近い怪我人のあちらこちらを輝かせる。
「ああっ」
 みるみるうちに、全員の傷が癒えていく。痛みのうめきが驚きの声に、死を前にした微息が力強い悲鳴に変わる。
「ま、まさか、ベホマラーだって」老いた難民が呆然とした。
「ベ、ホ……マラー?」
「集団を全員癒す魔法、もうこのアレフガルドでは失われた、はるか昔の伝説じゃ」
 恐怖に近い驚きの目が、虫どもの隙間から瓜生を見つめる。
「さて、これで動ける者は手伝ってくれ。難民キャンプ自体を移動させる、汚物を虫が運び回っていたら助かる者も助からない。虫を一掃した新しいキャンプで、全員清潔な布と寝台、それに十分な栄養と入浴。それだけで十人に九は助かる!抵抗は無意味だ、逆らう者は殺す」
 叫ぶと別の呪文を唱える。奇妙な音から、突然テントがはためき、大きくめくれる。
 外の、もはや木も切り倒された禿げ山に、静かな空から突然烈しい風が吹き始めている。
 瞬時に、目の前が見えなくなる。どんどん強くなる風が、土埃を巻きこみ、テントの布を、膨大な虫どもを吸い上げていく。
 奇妙に、烈しい力を受けつつも人々は動かない。汚れきった病人テント以外のテントは小揺るぎもしない。
 そして風が一点に集中し、ついに轟音が別のなにかになり……誰もが目を閉じた、次の瞬間すべての風が消える。
 瓜生が指さす、誰の目にも目立っていた焼け溶けた巨岩が砕けあとかたもない。無論バギクロスの威力に、遠隔操作爆薬の威力を加えてもいる。
 瓜生は無言で近くの荷車を示す。テント用大型防水布、そして清潔な毛布が山積みになっていた。
 圧倒され怯えた人々が、おずおずと動き出す。
 そして湖岸にポンプを置いて浄水フィルターつきの吸水筒を水に沈め、別のテントを鉄パイプの支柱を組んで作り、エンジンのスターターを入れてボイラーも点火する。
 それから別のエンジンを動かすと、あっというまに家庭で子供と遊ぶビニールプールを大きくしたような浴槽がふくらみ、それに熱い湯が満たされていく。
 湯に塩素剤をぶちこみ、石鹸とタオルを用意し、目をつけてあった窪地に廃水パイプを導き、
「さ、とっとと全員体を洗え。体が汚れてるってことは、それだけで他人を傷つけてると同じなんだ!」
 大呪文に衝撃を受けた患者たちは、幽鬼のように従う。実は精神操作の呪文も軽く交えているが、そのことは間違っても言えない。
 脱衣とは別にした服を着るところに大量の布とDDTを用意し、動ける者を一人一人、石鹸とシャワーの使い方を示しながら洗ってやり、浴槽に浸らせる。
 ひどい傷跡と潰瘍、皮膚病と寄生虫に、心の中で悲鳴を上げながら。
 マイラの近くからきた難民が、久々の風呂に嬉しい悲鳴を上げた。
「やりかたがわかって元気なら、他の誰かの面倒を見てやれ」というと、ベホマラーでもまだ動けない病人たちの所に走る。
 一人一人、丁寧に清拭剃毛して寄生虫を除去、衣類も交換して、治癒呪文では治らない病気の治療をしなければならない。
 ほとんどは栄養失調や伝染病、抗生物質・ビタミン・高カロリー輸液で回復するが、別の病気も当然あるし、ある意味どうにもならないのがショックによる精神疾患……
 手にトリアージタグを出し、歯を食いしばる。これからやるのは、生命の選別、多数の殺人だ……資材は無制限でも、彼は一人しかいないのだ。
 彼の能力は、量は事実上無限だ。冷凍全血と抗生物質、ついでにメイプルリーフ金貨とB2爆撃機を海水面を上げ、重力崩壊して超新星爆発を起こすまで積むこともできる。
 木星には地球の、人類に掘れる浅い表面の、採算が取れる鉱山の合計などよりはるかに膨大な金原子がある。地球の、人類には手が届かないマントルや核にも、もちろん火星にも水星にもそれなりにある。太陽にも、プラズマ化しているがある。
 銀河ひとつに千億の星、観測可能宇宙だけで千億の銀河、観測可能範囲の外にもインフレーションでその千億倍のさらに千億倍の……。その一つ一つの星に、木星ぐらいの惑星が二つか三つ、地球型はもっとたくさんある。恒星系でない放浪する岩、ガスや氷の塊、薄く広がる塵もたくさんある。その原子すべてが、《彼の物》だ。
 どこの世界にいても、通販のカタログや軍の補給表を思い出し、数量を指定するだけで、宇宙全体からランダムに各元素の原子が彼の手元に移動し一つ一つ積み重なり、指定した「品」の原子単位のコピーになる。
 だから彼が銃を出しても、別に地球のどこかの倉庫から消えて、管理担当者が軍法会議にかけられることはない。地球にある鉄原子が選ばれる可能性は、「コップ一杯の水分子に印をつけ、海全体に混ぜてまたコップ一杯汲めば印つきが何十個も入っている」アボガドロ数にもかかわらず無視できる。
 彼が出した物なら消せる。また魔法を覚えてからは事前に整備した車やベルトリンク済みの弾薬、装填済みの弾倉を、魔法の助けで創った別の時のない空間に整理し、瞬時に出してすぐ使うこともできる。
 それでも、あくまで彼は一人しかいない。ゾーマとは違い、瞬時に知識を他人の頭に押しこむこともできない。モシャスでゾーマの姿と力を一時的に借りることはできても、その状態では瓜生/ゾーマはまったく制御できず、敵を倒してすぐ戻るのが精一杯だ。
 まずトリアージ、同時にブドウ糖とビタミンを飲ませ、全身を清潔にする。最小限の診察で重篤患者は点滴、それも最初の数人だけやって、あとは動ける人に見本を見せてやらせる。
 今日はそれで精いっぱい、明日から二日程度で赤の緊急治療、本格的な診断はそれから、骨折の整復や義手義足などはさらにその後……同時に難民たちに、薪を節約できる土かまどの作り方も教えなければ……

 リムルダールの街からの使いが来たのは翌日、さらにラダトームからの使いは十三日後だった。
 リムルダールからは、まず何をやっているのか程度だった。
 居丈高に怒鳴りつける使者に、「死にかけてる人を助けてるだけだ」と答える。手も止めない。
 剣を抜き兵に命じて槍を向ける、そこにマホトーンで呪文を封じつつ、フラッシュライトで目をくらませながらショットガンのフルオートで非致死性ゴム弾をばらまき、「それどころじゃない、敗血病が八人、腹膜炎二人に帝王切開一人、どれも緊急なんだ!」が瓜生のいつもの返事。
 比較的元気で好奇心のある若者を連れて、点滴や包帯の交換、清拭を実演で教えつつ簡易ベッドを回る。中に一人僧侶の卵がいたがホイミが使える程度だったので、やや無理にベホイミとベホマラー、さらにニフラムを変型した殺菌消毒呪文と、ザメハを変型したショック状態の治癒呪文を即席で教えた。
 教えられた人が教えれば、倍々ゲームが始まる。
 簡易ベッドやシーツが売り払われていれば補充する。驚きもしない、難民キャンプでも年中あることだ。
 手を動かしながら、やっと起き上がった使者に1kgの金地金を二つ放り、
「一つはお前のでいい、もう一つを一番上に渡せ。その人が直接こっちに来い、手が離せない。こっちの人々も忘れてはいないとアピールするのは、そっちにも得なはずだと伝えろ」
 十年は軽く暮らせる、ひと財産に使者は圧倒され、そのまま立ち去った。

 数日後。なんとかそこの数百人全員の診察を終え、赤の緊急手術が終わった頃に、一人の老人がキャンプを訪れた。
 水はやや遠い山から塩ビパイプで引き、飲み水は一度沸かしている。汚水は一度、波打ち際を掘り下げた浅い池に流す。いやな匂いはあるが、水草を植えて魚を多めに入れたので虫は少ない。
 必要な木材は近いところから蚕食するのではなく、山の斜面を登る帯状の伐採域を定めて帯と帯の間の森を保ち、枝葉で道を作って引きずり下ろすよう強いられている。また土・石・ぼろ布などでかまどを作る技術も教えたので、かなり薪は節約できている。
「あなたは、一体」老人は、手も止めず腐りかけた傷口の手術をしている瓜生に、臭いに顔をしかめながら話しかけた。
「死にかけ、助けられる人は助ける、それだけです」言いながら、うごめくウジごと腐敗部を軽く覆う。
 ウジに死んだ組織や細菌を食わせるのは、特に先端医療機材を手に入れにくい場では有用である。自分はいつ去ることになるかわからない以上、できるだけその場で手に入る物でできる医療を、助手たちに学ばせるしかない。
 血管を結紮して輸血パックを点滴につなぎ、ベホイミをかけて次の患者に移る。
「ラリホーの応用は覚えたな?」そういってまぶたに、木でできた小さな鉤を引っかけて目を引き開け、気管に管を入れて呼吸を確認、僧侶の卵にうなずきかける。「ここを圧迫して診断する。だが虫垂炎は紛らわしい病気だ、今の君たちは、実際に開かない限り確定診断はできない。開いたら広く患部を見て、別の病があると思って」
 手早く露出させた腹の周辺を剃毛、消毒。すぐさま恐ろしく鋭いメスで一気に切り開いた。
「さて、どのようなお話でしょう?」飢餓でほとんどない脂肪層、筋膜と切り開きながら、老人に目も向けず話しかける。
「……何が、欲しいのじゃ」敵意、迫力のある声。年齢以上の経験と、悲しみと疲れはあった。
 瓜生には、その直截な言葉はむしろ嬉しかった。バカではない、ということだ。
「助けられる人を助けるだけです。行動のみで判断して下さい」
 溜まる静脈血を脱脂綿で吸わせ、木でできた器具で切開部を押さえる。自分が助けた人に石を投げられる覚悟は、いつだってできている。
「このあたりにはかなり太い血管がある。先端の丸いハサミを使うほうがいい場合もある」と、助手に告げつつ傷口を開き、腸をおおう白い膜を切り裂く。
「この組織は丈夫で、しかも脂肪が多い。ただ鋭い刃ではすぐなまる。馬針のように小さく鋭い鎌を多数、または柄が細長いハサミを作らせるんだ。ガラスの破片に柄をつけてもいい」と、オルファのフックカッターの替刃とハサミを使い、「鋭い刃で少しずつ切るのと違い、ハサミや鎌で大きく切ると血管を切る可能性も高い。常に大量出血を前提に、即座に止血できるよう。自分の手を傷つけるな。血を」赤い動脈血、周囲に手早く曲がった針を刺し、糸を引いて締めつける。助手があわてながら、脱脂綿を入れて血を吸う。
「開いたらすぐこの呪文、手を動かしながらできるように」と、呪文を唱えながら、もう腫れ上がった虫垂を結紮し、鉗子で押さえてハサミで切断、そのための小さな箱に入れる。「これもあとで検査する、誰の何なのか明記しろ」
 多彩で鮮やかな色、黄色い脂肪に覆われた内臓を一つ一つ、目で点検し、助手に見せる。
「腸捻転や閉塞はない。腹膜炎はない。癌だとしたらこのリンパ節が腫れている、必ず確認しろ。幸い今回は大丈夫だ。大血管は必ず二重結紮して切断、傷を閉じる時に縫い継ぎ、少ない魔力で一点集中したホイミ」言いながら、やる。「糸に目印を忘れるな、動脈と静脈を間違えてつなぐと危険だ。目印のない血管は原則つなぐな。動物の腸から取った糸を使えば、そのままでいい。植物の糸なら治癒呪文を使って、必ず抜くこと。この呪文も覚えるんだ、ニフラムの変型で、感染症を元から断つ」
 呪文を唱え、血管を結び合わせて腸の位置を整え、生理食塩水の湯冷ましで洗浄し、傷口を縫い合わせてホイミで閉じる。
「ここをきちんと閉じなければ、あとでヘルニアになる。おれがいなければ輸血は困難だが、煮沸した食塩水の注射や、補水液の経口投与でも生存率は高まる。経口液にはシェラム果汁・甘酒か蜂蜜・にがりを加えろ。ラリホーが覚める徴候、この」と、小さな木の鉤でまぶたを引っかけ開けてある右目を示す、「眼球が上下に激しく動いたら気管に入れた皮筒を抜き、まぶた止めを取る。タイミングが狂うと患者は苦痛でパニックになり、自らを傷つける。さて」
 と、老人を振り返り、一口水を飲む。若すぎる僧侶の卵が、疲れてへたりこんだ。
「あなたの寄付で、流れ者の僧侶が雇われた。としておけばいいでしょう。必要な物資は私が出しますが、すべてあなたが出したことにして下さい」
 手をウォッカで洗いながらの瓜生の言葉に、老人が目を見張る。
「邪魔しないでくれれば、それで充分です。難民でない人でも、病人がいたらこちらに運んでください。学びたい医者や僧侶、魔法使いがいれば、誰でもどうぞ。実地で働いてもらいます」
 それだけ言い終え、大きく息をつく。疲労を振り捨てて、両腕にもウォッカをかけながら話し、カルテをちらりと見る。
「私が伝える衛生・医療の技術や呪文は、今後とも有用なはずです。原資となるだけの金銀は出しますので、学んだ助手たちを雇って多くの人に教えさせ、それで儲けて下さい。欲があるのならば。
 誰にでも欲はある、はずですが、欲と理性を兼ね備えた人は少ない……欲がなく理性だけの連中が一番危険です、伝統や道徳を人命より重視する連中」
 瓜生の目を、老人は直視できなかった。
「だ、だが」
「わかっています。一人の人にできることに、限度があることは。できる限りでいい、不可能は求めません。一段落したら、消えますよ……誰かが、技術の断片だけでも伝え広めてくれれば、それで死ぬはずの人が一人でも助かれば」
 そう言って次の患者の胸を聴診器で診、すばやく決断して麻酔をかけ、胸を大きく切り開いて溺れている肺と止まりかけた心臓を丸ごと切り取り、空のまま軽く閉じてベホマ、点滴に注射を入れて、またすぐ次の患者。
 何人か、手の施しようのない患者……救命に大規模な設備が必要な患者、救命できるが二十時間以上瓜生の手術が必要な患者に、心を切り離してモルヒネを投与する。

 ラダトームからの使者は、内容皆無の口上の半分も聞かず、ただ怒鳴りつけた。
 数日後、一人の少年が、手伝いに加わった。彼のそばにいた美しい少女がお付きの人々と共にリムルダールの街に向かい、祭りに加わっているようだ。
 瓜生は一目見て誰だかわかったが、まったく構わずに使える呪文を聞く。
「ベホイミまで使えるのか」と、遠慮なく仕事を押しつけ、そして瓜生自身には使えないベホマズンの呪文も伝える。
 また数日が瞬く間に過ぎ、ベホマズンの威力もあってリムルダール周辺の病人に目処がついた。そのときに、瓜生は彼をあらためて、見る。
 顔立ちからミカエラの子孫であることは一目で見てとれるが、むしろミカエラの母、ネクロゴンド王女エオドウナの鼻筋と、アリアハン王家の骨太な眉。
 何よりの証拠が、背に負われた、古びたAK74。百何十年前、この世界から去る時ガブリエラに預けたうちの一挺。
 かたわらの少女は、まさしくラダトーム王家の純粋培養。つんとした鼻と大きい目、少年たちが思い浮かべる「姫」の像そのまま、薄絹の印象をただよわせ、少年に寄りそっている。
「あなたは」
 初対面のように、まっすぐに瓜生の目を見る。ミカエラの強い瞳。
「ミカエラの子孫、ですね」瓜生が断定した。「オルテガとネクロゴンド王家、そしてラファエルより伝わるアリアハン王家の血筋、見ればわかりますし、ベホマズンが使えたことも証です。見せていただけますか、アブトマット・カラニシコヴァを」
 勇者が、左手で抜けるよう銃剣に手をかけながら右手で差し出す、木と鋼の銃。恐ろしく古く方々が摩耗しているが磨き込まれ、しっかりと油が回っている。銃床は本来のものとは別の、年輪のない木材だ。
 弾倉は鉄。ベークライトでは、百年持たない。
 瓜生は白衣を脱いで地面に広げ、銃を受けとって、銃口を安全な方向に向けて弾倉を外し、ボルトを引いて薬室が空なのを確かめ、レシーバーを開けると中を点検した。
「よく整備されています。元々AKは長寿命ですが、これほどとは」と、へたりかけていたバネと、銃剣格闘のせいか曲がりライフリングが摩耗していた銃身を、手に出現させては交換し再組み立て、5.45mm口径を示す銃床の溝を指でなぞり新しいベークライト弾倉をはめて返した。
「あ、あなたは」
「瓜生」
 その一言とともに、奇妙な紋章……メイプルリーフにAKと注射器を交差した図案を刻んだバッジを胸につける。勇者は大きく目を見開いた。
「予言通り、時間を超えていらしたのですね。わが先祖、勇者ロトとともに大魔王ゾーマを倒した、上の世とも違う異界より来た……ウリエル」
 最後の名には、強い畏敬の念がこもる。
 瓜生はうなずき、姫を見る。
「わが妻、ローラ」と、少年が慣れぬ儀礼で紹介する。
「お初にお目にかかります」瓜生が、アレフガルドの宮廷儀礼で礼をする。
「かなり古い儀礼よの」ついていた老女が眉をひそめた。
「憶えたのは百年前で、それも長い滞在ではありませんでした。ご無礼を」
「なぜ、もっと早くいらしてくださらなかった。もしあなたがいれば、竜王など……」勇者の目が厳しくなる。
「私がいつどこに行くかは、私に制御できることではないのです。申し訳ない」瓜生がそれだけ言い、目を伏せる。
「まあ、過去をとやかく言うより、今できることを」その笑顔には、オルテガの大らかさがあった。
「ラファエルがよく、そう言っていました」
「そう、伝え聞いています。ラダトームにも、病み傷ついた、滅ぼされた村や町から逃れた民は多くいます。お力をお願いできますか?」少年の、必死の目。
「もう少し、こちらの目処をつけてからですね。きりがないのは、わかっていますが……まあレッドは大方終わっています、これからは金持ちの重病人を治し、その報酬として私から学んだ助手たちに仕事を続けさせる、ぐらいですから」
 瓜生が自嘲の笑みを洩らす。好きではない仕事だ、十人の重症者より、一人の金持ちの歯痛……長い目でより多くの生命を助けるため、選択の余地はないことだが。
「これが、私の王国を探す道の、始まりとなるでしょうか。大きいことを言ったのはいいですが、どうしていいかわからないのですよ」勇者の穏やかな笑いは、ラファエルによく似ていた。
「こちらにいる間、お仕えします。ただ」瓜生が、歯を食いしばり目に力を入れる。
「虐殺・拷問・強姦・略奪は絶対にお断り、ですよね。伝え聞いています」深くうなずき、微笑む少年に、瓜生はカリスマを感じ衝撃に打ちひしがれる思いをした。

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