殉智列伝第一、グリュナイゼン=ボーヴィン
グリュナイゼン=ボーヴィンの発見は、彼の独創によるものとは言い難い。
だが、彼は疑いなく偉大な発見をした。余りにも。
「やはり・・・な」
絶命した患者のために祈りつつ、彼は密かにつぶやいた。
患者は三十路に入ったばかりの男性で、五日前に上腕部裂傷を負った。
処置、状態などはできる限り詳しく記録し、後の参考にする習慣だった。彼だけの奇行とも言うが。
夜になって、十年近くに渡って集めてきた記録を見直している彼の表情は確信に満ち、輝いていた。
眼前にはいくつかのカルテが山積みになっている。
「やはり・・・完全に間違いない、治癒呪文で傷をふさぐ前、酒で洗ったグループの方が多く助かっている。数字がはっきり語っている。」
「・・・心を尽くし、魂を尽くして大いなる神々に使えるべし。神々の名と偉大なる御力もて、病み傷ついた者を助ける事に尽力すべし。いかなる事があっても毒薬を渡すべからず。師を生涯敬い、その師弟には値無く汝が技術を教えるべし・・・」
やっと長い誓願が終わった。
「おい、グリュナイゼン!」
「フリッツ!お前、東ヴァイスバルト司教に招かれたんだって!?どうせ親のコネだろうけど」
「言ってろ!その通りだ。お前はゲシュタント修道院付属慈善病院だろ?」
「ま〜な、大変だよ。あそこは悪夢城を始め戦場が近くにあって、つまり患者も多いってことだ。」
「その分チャンスも多いって思えよ!先々代宮廷聖医長だったヴェルナー=フォン=ノイマン伯もあそこで一騎士の治療をしたらそれが宰相になった、ってことらしいし。そうなったらよろしくたのまあ、ハハ・・・」
「ハハハ、楽しみにしててくれ。飲むか?」
医者達には二種類ある。聖職者を兼ねる聖医師と、民間の施術者(モグリ)だ。前者は高度な理論体系を持つ神聖魔術と密かに伝えられている薬を用い、後者はより怪しげな呪術、手荒な外科処置、そこらの雑草から選び出した単純な薬草を用いる。
聖医師は原則として各教会、神殿に付属した学校などで長期の高等教育を受けている。
しかし、どちらがより優れる、と一概に言い切るわけにはいかない。無論、いいかげんなものや迷信でしかないものも多いが、教義に縛られぬ民間の方が有効な治療法を知っていることもあるのだ。
言うまでもなくこの二つは、公式には敵同士だ。だが、治療実績を出すには両者の協力が必要だ。教会にとっては必要悪として、黙認されている。
グリュナイゼンは今、イーゲー修道会付属聖医学校を卒業して聖医師の資格を取ったところだ。
いくつもの夢を抱いて。
彼の家は代々下級聖職者。
両親は共に伝染病に倒れ、彼は祖父母に育てられた。
難関である聖医師への道を志したのは無論両親の死がきっかけだ。彼にとって病魔との戦いは、両親の仇討ちでもある。
辺境の地。
海のような森に囲まれ、特別にAUG-8;30mmガトリング砲に守られた壁の中、川辺にある街に彼はたどり着いた。川が天然の運河になっており、この地方では比較的大きな市場かつ軍事都市である。
うるさい町だ。
それが彼の第一印象だった。
一息いれよう、と寄った屋台で、腰を下ろす間もなく大声が飛んできた。
「おーい!そこの、医者だろ、あんた!ちょっと来とくれ!」
振り向くと少女だった。
浅黒い。純血の人間ではないな、と見える。
やれやれ。
慌しく氷果実にかぶりつく彼を、彼女が強引に連れ出し、広場に半ば引き出した。
患者は十歳ぐらいの女児で、激しい腹痛を訴えている。
「どれ・・・痛いのはどこだ?昨日何を食べた?便通は?熱は?」
言いつつマニュアル通りに腹部を触診。
(右下腹部の痛み、熱、悪寒・・・急性虫垂炎ですよね、教授?)
それで気付く。今ここには教授がいない、自分に最終責任がかかる事を。
(間違いない。他は・・・食中毒ではないし、赤痢でも・・・ええ、)
「だいじょうぶだ。力を抜いて・・・全てを清めるアニよ、この邪気の卵を汝が火もて、羅針盤の導きにしたがいて焼き尽くせ、全ての毒を食らう孔雀よ、冷たき舌で痛みを去れ・・・・」
約一時間呪文の詠唱は続く。
「ふう。痛みは?よしよし。まあ、三日は安静にしていること。もうだいじょうぶ!」
(ふーっ、よかった・・・ただの虫垂炎で。もしこれが特効呪のない病気だったり、呪文の結果黒い光が肝臓に走ったりしたら命取りだった・・・)
まあ一応、初めて人の命を救ったことに満足、同時に正直、疲労で倒れそうだ。
野次馬から拍手が上がる。
「ありがと。あたしじゃどうにもならなかった。あの、お礼」
「いい。とにかく休ませてくれ。」
「あ、うん。」
と少女に案内されたわらの山を見るや、飛び込んでそのまま眠り込んでしまった。
明朝の彼女の話では、施術者である彼女の父が他行中だったらしい。
そのまま、そこから病院に通うことにした。
初日から嵐のようだった。
門前に傷病者が山積みになっている。
自己紹介の間もなく、古い広間に。そこは文字どおり地獄であった。
思考が止まる。生きながら腐り、虫がわいている。
腐臭、死臭が脳を直接犯す。
今までの、清潔な学園の病室とは余りにも違う。
吐いた。
そして・・・その胃酸の痛みで意識を取り戻した。
「・・・・あの、今度」
「新入り、こっちだ!草切れから魔が入った。」
「痙攣は」
「当たり前だろ!」
言葉より先に平手が飛んでくる。
初老だががっちりした、巨木のイメージを感じる男。施術者と見た。
(破傷風!なら大天使レメク様の御力をお借りすれば、症状の進行は押さえられるはず。後は・・・あ、だめだ!傷口が腐りかけてる。体を静めては毒が心臓に回る・・・)
「聞いてんのか!早くしろっつったろ、ネルヴァの根と黒網柳の樹皮!!」
叫びつつ右手のメスで傷口を十字に切開、左手の土器の中身を注ぎ込んだ。
患者の体か反り、穴を開けた鉄管を噛まされた口から血が流れ出す。
「何を!」
「るせえ、傷口に酒を注いで魔を清めてるんだ!」
「そんな事学校では・・・第一理論的に」
「戦場じゃ昔からそうやってる!!」
今度は平手ではなく、拳骨。
半年後。彼も一人前だ。
「おやっさん」
「ん?」
「傷口を洗うだろ?それも酒やら酢、蜜とか香油も・・・あれって、高度な治癒呪文で、呪文の前半が浄化とか・・・そんな、傷から侵入する魔を払うような、そんな言葉なのと、なにか」
「関係ねえよ。たすかりゃいいんだ、ほら」
と、渡された木杯を干す。
「お、こりゃいい樹液酒だ」
「だろ?いい酒が飲めりゃあ、それでいいのさ」
「でもな、美味しい酒を造るには技術や知識がいる。経験も要るがな。」
後はつぶやくように、
「多分、酒が何なのかわかれば・・・もっと美味しい酒が作れるようになる」
「そうだったら苦労しないさ、それにろくなことにならねえぞ」
「誰もぐうの音もでないように、明白に酒で傷口を洗うと治る、って命題を証明できれば。だが、そんな命題、どうやって証明すればいいんだ?首を斬れば人は死ぬ、それは明らかに正しい。なぜ?」
「なにわけのわかんねえこと考えこんでんだ、賭場にでも行こうぜ」
と、強引に、半ば引きずるようにグリュナイゼンを連れ出した。
「偶数!」
「やった、これで借金が返せる」
「くそっ、またかよ・・・」
「おいおい、ここで帰ろうったってそうはいかねえ。もう一回勝負だ!」
「これに勝てば借金が返せて、それに今夜たっぷり遊べるぜ」
全員・・・約一人を除いて、食い入るようにさいころを見つめている。
古来幾人がこの小さな、様々な素材で作られた立方体で破滅したのか。滅びた国さえあるやもしれぬ。
「奇数!そら・・・」
「ふざけるな!」
大声と共に、ディーラーの手が万力のような手で抑え込まれた。
「なんだてめえ!」
「ウラァ!!」
「おやっさん、どうしたい」
「イカサマだ」
施術者のオヤジはグリュナイゼンの目を見もせず叫ぶと、
「何ぃ?ぶっ殺せ」
つかみかかった男を投げ飛ばした。
色めきたった賭場に、
「光明よ、その偉大なる車輪を天空より下して・・・」
強烈な光が走って全員の目を眩ませる。
「ありがとよ、ヴォー」
「いったい、どういうわけでそんな言いがかりを?」
「さっきから数えてたんだ。ここ40回で、偶数が11回で奇数が29回。これでサマがないって」
と、かみつぶしたサイコロには鉛が。
「そうか!」
怒号も耳に入らず、グリュナイゼンは立ち上がり、走り出した。狂ったように。
「おい、どうしたい!」
「比べるんだよ!!二百人の怪我人がいたら、百人の傷口を洗ってもう百人を治癒呪文だけで。もしはっきりした違いが出たら・・・明白な証拠だ。」
これで終わりではない。発見において、確かに道を見出すのは難しい。だが、その道を歩むのはそれ以上に、想像を絶する難行なのだ。
地味で厳しく、絶望と戦いながらの遠い道。
「くそっ、だめだ!」
「どうしたの?」
「これじゃ、私自身が納得できない。一人一人年が違うし、怪我の状態も、去年診たのが熱い日に右手、今日の患者は雨の日に左手、じゃ比べていいか分らん。もっと多くのデータがないとなあ。それに、何か処置される事自体が、患者を安心させて気のせいで治るとしたら・・・」
「あんまり根を詰めないで。もう3日も眠っていないでしょ?初めて会った時には、一回呪文を使っただけで眠り込んでたのに」
彼が始めてこの街に来た時、助けを求めた少女・・・グリュナイゼンの妻、リンが、カルテの山に埋もれた彼に茶を運んできた。
「ああ、助かる。ありがとう・・・でも、これが証明できたら、世界中で何万人も助かるようになるんだ。そしてさ、最近なんとなく感じるんだけど、高度な光魔術や酒、火、ある種の香や薬で清めると、それが伝染病の病魔も・・・すでにかかってしまった人間には効かないけど、かかっていてもおかしくない状態でもかからなくできるみたいなんだ。だとしたら、それが色々な清めの儀式の本当の意味だとしたら、もっとうまくやれば・・・伝染病を、倒せる。」
「変わらないね、その目は・・・」
「君は変わったよ。驚くほど・・・美しくなった。」
「以上、おわかり頂けましたでしょうか。尚、ここで注意すべきなのは、第一に力を込めぬ単純な信仰、もしくは小麦粉など毒にも薬にもならぬものを、薬と偽って一方に与えていることです。」
「それが、何の意味があるのかね?」
「何もしない患者より、それを与えた患者は明らかに経過がいいのです。私が試した方法にも、その薬ではない薬と同じ働きがあるかもしれません。第二に、患者は驚くほど医者の心を読み取る力があります。故に、患者に自分が与えられているのが単なる気休めなのか、それとも試されている治療法なのかを知らせないためには、それを施す医師自体も自分がしているのがどちらなのか、知らないことが必要です。それはこの間、助手を使ってそれに留意しました。これが、傷口を酒で洗った患者と、単に祈って手を当てただけの患者の経過です。これで、傷口を酒で洗うことの有効性は証明されました。」
自信に満ちた歴史的発表が終わった。
負傷後の敗血症による死の、大半が克服されたのだ。
満場の碩学は沈黙していた。
いつまでも。
ただ一人、若くして天才の名をほしいままにしているカールと言う医学者が、気分を悪くしたかのように会場を飛び出した。
(いけない!!いけない!!いけない!!これを認めてしまっては、信仰と伝統による医学は、世界は一夜にして崩れてしまう!いけない!!いけない!!なんでこんな田舎者が、こんな事を思いつくんだ!!本当の天才だと・・・)
カールがトイレで吐いている際も、沈黙と無関心が情け容赦なくグリュナイゼンを切り苛んでいった。
(どうしたというんだ?負傷の後、直後の病死する人数が半減するんだ!理解できないのか?こいつら全員、耳が聞こえないのか?正しいことが理解できないのか?)
「そうだったら苦労しないさ、それにろくなことにならねえぞ」
この言葉が頭の中を、繰り返し駆け巡る。
その間の、カールの動きは素早かった。
呆然としているグリュナイゼンを無視、強引に散会させて長老陣を説得、今回の議事録そのものを抹消した。
もちろん、その理由やグリュナイゼン=ヴォーヴィンの名前など出さない。彼の理解者は、自分だけで充分だ。
グリュナイゼン=ヴォーヴィンの聖医師資格剥奪は、それから半年後のことだった。何かに連座してらしい。
その後の彼については、一切記されていない。発狂して客死したとも、その最後は定かではない。
そして、抹消されたはずの彼の事跡、思想的には科学と近代そのものが再び・・・カールの日記から明らかになるのは、対象群との統計的比較、偽薬、二重盲検法などの手法が発見されてから十年した二百年以上後のことだったという。