枕元の計算用紙
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アメリカでも日本でも、子供たちの精神構造の変化・・・非エリート層の向学心の低下どころか、単純に席についていることすらできない自制心の低下、その他基本的なモラルの崩壊、暴力の増加などが注目されています。
理由なき暴力と呼ばれるものも多いようで、それについてはメディアの影響(これは昔から言われ尽くしていますが)、家庭の機能喪失などがいわれます。そこで思うのですが、現在のメディアは「正義の暴力」を否定し、上品なメディアは暴力そのものを悪とみなして、逆に暴力を扱う低俗なメディアはとにかく生き延びるためや特に理由のない暴力を直接扱っています。
僕はそれが、モラルのない暴力の暴走に関わっていないかと思うのです。たとえ偽善的でも、正義の暴力は一つのモデルになります。暴力に付属する誇りを教えることはできると思います。教えるのはガンジーやキング牧師のような非暴力であるべきだ、と言うかもしれませんが、非暴力非服従は拷問や虐殺の前にいかに無力か、子供たちは学んでいますし、第一「かっこいい」ものではありません。かっこいい、というのは確かにマイナス面もありますが、子供には強いアピールになります。
火星探査計画がいったん全面的に白紙になり、見直すそうです。このまま宇宙への情熱は消えていくと思うとさみしい、と言う以前に人類と言う種にとって致命的だと思います。
7日から29日まで、パソコンの再インストール失敗につき更新停止・・・
早速、大手書店の児童書フロアを見てみました。特に伝記のラインナップは変わっていませんでした!ほとんど増えていないのです。例えば故イザーク=ラビン氏、ミハイル=ゴルバチョフ氏、ネルソン=マンデラ氏などは新しく登場してもいいような気もするのですが・・・。
児童書フロア自体、ゆっくりと見て回るのは久しぶりでした。その中で目立つのが生命科学と環境関連の書籍が増えている事です。あれだけの本で啓蒙されてきているなら、もうひとつ下の世代から大きな環境運動が持ち上がりそうで、楽しみでもあります。まあ・・・その程度の事はあまり影響しないかもしれないですね。
現在、理想とされる人材、またはあるべきヒーロー像とはどのようになるのでしょうか?
問い自体を煮詰めてみましょう。理想とされる、というのは何にとって理想とされる、ということか。子供にとっての理想、としては、一番社会的に高い金持ちになれる職、それにつける能力、人格でしょうか?それとも、経済以外の尺度があるのでしょうか?以前の調査では子供たちのサラリーマン、公務員指向・・・経済的安定を求める心理が問題視されていますが、現在のようにリストラが激しく、どこにいこうと経済的安定など得られない状態で、今の子供たちはどんなふうになりたいと思っているのでしょうか。
雇用者にとっての理想とは?グローバル化、IT革命、リストラの嵐の中を生き延びている一流企業にとっての人材とはどのような像でしょうか?厳しい就職戦線の中、企業側の本音はやはり一流大学卒の優秀な男子で、英語力があってコンピューターも使いこなせ、しかもEQ=人間関係能力がとても高く、仕事も確実にこなせてしかもエネルギッシュ、古い上下関係に的確に適応でき、様々な慣行や常識を理解しつつ新しいルールにも対応し、創造的な仕事をしつつそれを上司に譲る世間知もあり、そして常人なら過労死するようなサービス残業を笑ってこなすような、そんな人材でしょう。つまり以前の価値においても充分高く、そして変わった意味での価値もバランスよく併せ持つような・・・。
今の子供たちに戻れば、彼らは誰の、どのような伝記を読んでいるのでしょうか?今はビル=ゲイツやジョージ=ソロスのような成功した起業家の伝記なのでしょうか?でも彼らはまだ存命で、伝記には適していないかと・・・。同じように創造的起業家として成功した、エジソンやベルの・・・発明家としてだけでなく、その後の企業家としての成功を読んでいるのでしょうか?今度、大手書店の児童書のフロアで、子供向けの伝記がどうなっているか見てみましょう。
「憲法に現実を合わせるか、現実に憲法を合わせるか」はどちらが正しいのでしょうか?どちらが、という事自体ナンセンスです。現実を見ない、またはまるで機械を設計するように現実を無理に作り上げようという姿勢も間違いですし、だからといって現実を無制限に受け入れるだけの、意志のない人形のような態度も誤りです。
歴史の中にいるという謙虚さを持ちながら、理想を追うバランス感覚が求められるのではないでしょうか。
またアメリカで、銃による悲劇が起きました。銃社会が悪い、規制せよという声が強いのですが、僕は悪いのはあくまで銃ではなく(正しく取り扱っている際の銃自体に原因のある暴発を除く)使う人間だと思います。特に6歳の子供が友達を射殺した事件では、その子の環境があまりにもひどすぎます。
銃を持つ家庭は持たない家庭よりも銃で殺される率が高い、だから銃は持ち主を守らないという論が新聞にありましたが、それは環境が悪い、つまり教育レベルや所得などの低い層では圧倒的に多くの暴力があり、だから誰もが銃を持つが、それでも防ぎきれないほど犯罪が起きるという事です。
元々犯罪のリスクの大きい地域にしか住めないから銃で殺される事が多いのであって、銃を捨てさえすれば安全な高級住宅地の警備システムの充実した家に住める、というわけではないのです。
環境を改善していくことだけが一番遠回りな、そして唯一有効な犯罪を減らす手段で、銃を規制しさえすればいいというわけではないです。
銃を規制すれば、その撃った子の周囲の人物のような麻薬や犯罪に関わる者だけが銃を持っている、という状態になりますし、政府や警察が牙をむいた時、特に人種差別を受けている層が自分を守る手段がなくなります。
あくまで、「訓練されていない者が触れてはならない」を徹底させるのが一番だと思います。
これも一種の銃規制かもしれませんが、全ての人間に家族が機能しているのなら家族によって基礎訓練をし、最終テストだけをする形で、家族が機能していなければ学校などの公共機関で義務教育の中で銃、ナイフなどの武器の最低限の使い方や安全のためのマナーを教え、最後に試験を済ませ、同時に予防精神医学的な措置をしてから「正義のため(テロは正義ではない!)、緊急の場合自分を守るため以外には絶対に使わない、訓練を受けていない者には絶対に触れさせない」を宣誓させて、その上で所持と使用を認める。その始めの所持免許(宣誓)を済ましていない人間は家庭内の訓練以外で絶対に武器を手にしてはならず、それを破った場合には本人とその武器の管理者双方に厳しい罰を加える、という形にするのが一番でしょう。
さらに希望者には現在いくつかの州であるようにより高度な訓練と試験を経てから隠して携帯する事も認めるとすれば、特に路上の犯罪者には多くの正しく訓練された武器が市民の手にある、というプレッシャーになるでしょう。
少し考えてみて愕然としたのですが、少なくとも義務教育で与えられ得る知識が、いかに「ロビンソン=クルーソー」や「二年間の休暇」に必要な知識、技術に足りないか!ほんの数日、それもない事もありうる野外活動で、野外での行動に十分な知識はあるでしょうか。最低限の狩猟、獲物の解体、きのこや食用植物の見分け方、日本で特に必要とされるどんぐりの類の食べ方、肉や魚の貯蔵法、コンパスを利用した移動技術などなど・・・あまりにもそれらの知識、技術を知らないのです。
やはり、少なくとも一ヵ月以上、できれば半年以上の長期野外活動が義務教育の中にあるのが理想だと思います。その間ある程度の書物を持っていかせれば、するなと言ってもある程度の勉強をするでしょうから、学習の面でも問題はさほどないでしょう。最大の問題はその間、連載マンガやテレビ番組を断たれることですが、それらとも最低限アクセスがあってもいいかもしれません。
あ、上の書物での自習を考えた時に気付いた事ですが、日本の学校教科書は少なくとも僕の経験上は、それだけで独学できるものではないみたいです。既存の教科書とは別にでも、独習用の本、できれば文庫本形式であらゆる科目を十分に学べるものがあると便利と思います。
アメリカには、赤狩り時代に悪用されてあまり評判のよくない制度ですが、忠誠審査制度というのがあるそうです。
特定のアメリカ国民が合衆国の敵国、または合衆国憲法を否定する政治勢力に忠誠を誓っていないかを公的機関によって審査する制度だそうで、日本にそれがあったらどうなるのでしょう。まあ、その制度自体アメリカが移民の国で、移民の故郷とアメリカに忠誠が分裂する宿命があるからですが。
日本でそれをするのでしたら、まず
に分かれていると思います。普通はその三つともに忠誠を誓うかどうかの問題ですが。
そして日本人はどう解答するかですが・・・特に教育関係者や、その影響が強い人は日の丸君が代と日本政府に対しては忠誠を拒否し、日本国憲法のみに忠誠を誓うと思います。キリスト教会は天皇制を体現する日の丸君が代に対する忠誠は拒否、根本的には神のみに忠誠を誓うでしょう。日本国憲法にはどうでしょうか?天皇制が残っているから拒否するのでしょうか?聞いてみたいものです。他の新宗教以降の宗教は、自分たちの教義のみに忠誠を誓い、日本国政府や日の丸君が代に対する忠誠は拒否するでしょうね。
ただ疑問が、日本国政府に対する忠誠拒否と日本国憲法に対する忠誠が矛盾しないかですが・・・多く見られる論調には、現在の日本国政府は憲法上正統ではない、という感覚を感じます。
僕?僕が忠誠を誓っているのは、宇宙船地球号に対してだけです。
学校の音楽室のピアノには、授業がない時にはいつも鍵がかかっています。どうしてでしょうか?いたずらで破損したり、事故をおこさないためです。だったら、誰か教師か、または弾ける生徒がついていればいいだけのことです。気軽に、そして自由に授業の合間に弾いて遊び、または教師か弾ける生徒に教えてもらえれば楽しいでしょう。同時に、情操教育にもなりますし、そうして遊び半分で弾いた子の中からピアニストや音楽家が出るかもしれません。
他の楽器でも同様ですし、体育設備でも同様です。学校の中には、いつも十分に活かされていない、そして自由時間に気軽に使えれば楽しいおもちゃであると同時に大切な教育になるものが山のようにほこりをかぶっているのです。それらをもっと自由に活かせれば素敵だったと思います。