枕元の計算用紙
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今は、長期的な視点で何かを行うことが不利益になることが多いのではないでしょうか。
これは以前からのことですが、例えばアメリカ大統領は四年間が任期、そして三選はないですから、例えば3年間の間経済が苦しくなり、10年後にいい結果が出てくる経済政策を行うことはアメリカにとっての利益であっても、自分の再選にとっては愚行に他なりません。
また、一般企業にとっても、特にアメリカ、そして最近の日本でも多くなっている短期利益を優先する株主重視の経営だと、安全や環境配慮をしにくくなります。あ、あまりにも激しい市場の競争は、安全に対する配慮が利益にならないという危険な状態を生むのでは?まして環境は、確かに企業イメージを大きく左右する物になっていますが、やはり外部経済には違いないですし・・・。
アメリカの立志伝は、何と言いますか・・・無一文から身を起こし、才能と努力で巨富を築き、それを惜しげもなく寄付して自分の名を冠した大学を建てるのがゴールのような印象です。ロックフェラーやデュークを初めとして、私立の力のある大学の多くが、アメリカンドリームの実現者の名前を冠しています。となると、21世紀にはゲイツ大学が学問とスポーツ両面で中心になるのでしょう。楽しみなものです。
反面、日本には有名大に松下大学も堤大学も小林大学もないのは一体どうしたことでしょう・・・。
もう今年の勝負はついたと言われる、相変わらず厳しい就職戦線ですが・・・就職活動は、まず「自己アピール」から始まります。でも、日本(もしくは中国古典)の精神文化の中には、「自己アピール」を否定するものがあります。
その、自己アピールを禁止する感覚を言葉にしますと「お前は人徳、学識、礼儀など全てにおいて、顔回に遠く及ばない。その顔回ですら自分を無理にアピールすることなく、生涯を困窮のうちに終えたと言うのに、お前のような小人が自分をあたかも君子で大人物であるかのように売り出すなど、見苦しいとは思わないのか」とでもなるのでしょうか。
つまり、自分より上がいることがわかっているのに自分を売り込むのは嘘であり、またもし自分が最高であっても、最高の人間は自分を売り込んだりしないもの(この論理もおかしいのですが・・・老子を始め、中国の歴史では本当に最高の賢者は自分を売り込まず、自分の名を聞いて雇おうとする権力者からも逃れて、一人で誰にも知られることなく、静かに清貧の生涯を過ごすものだ、という感じがあるのでしょう。)だから、結局自薦など人間がしていい行為ではない、ということになります。
でも、今の世の中はやはり、自薦からしか就職活動は進みません。完全にテスト結果だけで始められる仕事は少数ですし、そういった仕事であっても、そのようなテストを受けること自体が自分の優秀さを自慢する行為に他ならないので、自薦を自慢の一種として否定する倫理観からして見苦しい行為に他なりません。
そういった道徳感ではどうやって有為の人材を活かすか・・・は、まず権力を持つ者がどこにどんな賢者がいるか、しっかりと情報を集めて自分から三顧の礼を尽くして迎えに行く・・・とんでもない話ですね。それでも更に逃げて、山奥にこもるのが賢者の理想像ですから話にも何も・・・。その、どこにどんな賢者がいるかの情報は、他薦から得ることが多いようです。招聘された者が、自分には学識も能力も何もない、何処の誰それが本当の賢者で自分など彼の前では・・・と推薦して、それでとなるのですが・・・では、もし就職活動で自薦を禁じ、他薦のみにしたらどうなるのでしょうか。それはそれで面白いような気もします。
今のアフリカの内戦地帯と、戦国時代当時の日本・・・違いを考えてみましょう。
戦国時代の日本は、まず民族がかなり似通っていて、よほど離れていない限り(薩摩と津軽は会話にならないでしょうが)言葉が通じました。そして、漢文と言う共通語もしっかりとありましたから、知識人同士の意思疎通には不自由はなかったです。そして、全ての戦国大名に「上洛」というはっきりした目標がありました。上洛、つまり京都近辺を支配し、そこにある朝廷と足利幕府を押さえ、その権威を利用することで天下を治める、それが最終目標と見て間違いないでしょう。
今のアフリカ中部の内戦地帯には、ある地理的な場所にいる、歴史的な権威はありません。歴史的に、国境を決めたりなどする政治的な絶対権威はあくまでヨーロッパの列強からです。それを制圧することは不可能です。
つまり、武装勢力は一体どうすればいいのかが見えないのでしょう。とにかく支配地域を拡大する、大きな利権を得ておく、それしかない・・・。その状況から信長を期待するのは間違っているのでしょうか。
海外や時代劇など、物語の舞台における、度量衡や貨幣の単位はなかなかわかりにくいものです。
時代小説で「一両」や「二尺四寸五分」等が出てきた時、まあ長さなどの単位は少し調べればわかることですが、特に貨幣単位がややこしいです。例えば「鬼平犯科帳」と「剣客商売」の間にはごくわずかな時間差しかない(「鬼平」時代でも秋山父子は存命)のに、両作品における「一両」の価値には数倍の差があるようです。それだけのインフレがあったのでしょうが・・・。
あと苦手なのが、イギリスやフランスの貨幣単位。ドルと円の交換比率くらいは普段の新聞報道で知っていますが、ポンドやギニー、フランなどが・・・まして第一次世界大戦前にどれくらいの価値なのか、などまったく分かりません。ドルも昔とは価値が全然違うみたいですし・・・できるだけ色々な小説の上で、主要貨幣の価値は表示して欲しいものです。その点、池波正太郎の「五両といえば、当時は庶民一家族が一月はやすやすとくらせる金高であった」などと入れるやり方はとてもわかりやすいです。
もちろん、ヤードポンド法もとてもわかりにくい点です。一応、ファーレンハイト温度計は日本語訳の時に摂氏温度に変換しているようですが、それ以外もいちいち調べなくても何とかなるようにして欲しい・・・。
地価の上昇が今後、ほぼ考えられなくなり、ごくわずかな特別な力の持ち主以外給料も下がることはあっても上がることはないし、安定した収入も望めない社会になったことで従来の「家と土地を買い、しばらくローンを払いながら土地の値上がりを待ち、ローンを払い終えて充分地価が上がったら家と土地を売ってもっといいところに移り、それによって財産を増やす」生活設計が完全に破綻しました。家と土地は、買ったら最後下がるだけの、単なるとても高価な買い物に過ぎなくなるのです。今後、不動産は一体どのようにして土地を売ればいいのでしょう。そして、普通の人間はどこに住めばいいのでしょう。
戦争は戦闘員、そして戦場周辺の者に大きな深刻な心的外傷をもたらします。そして、その戦争が古来まったくなかった土地などあるのでしょうか?先祖をどこまでたどっても、いかなる戦争の体験もない家などあるのでしょうか?歴史に最近加入した、植民地であった土地にはその、奴隷的な支配と収奪という傷があるはずですし。
もしかして、調べ方によっては全人口の半分以上が幼児期に性的、身体的虐待を受けている、という説が正しいとしたら、それはそれらの心的外傷から始まったのではないでしょうか?
ハンティングのために貴族が土地を独占、立ち入り及び狩猟を禁止することは今まで、庶民の窮乏を無視した非道といわれてきました。密猟にまつわる悲劇は多くの伝説として伝わっています。日本では古来それほど狩りは盛んではありませんが、特に江戸時代武家はスポーツや実戦訓練にもなりますからかなり行っていたようで、あちこちに一般人立ち入り禁止の広大な御狩場があったようです。
その、自然保護としての面は一体どれくらい大きかったのでしょうか?鴨のような水鳥を狩るための、広大な湿地を含む原野を保存することは、遺伝子的多様性の保持や水質浄化など、さまざまな面でとても大きかったはずです。そして、それは今世紀、貴族の力が大幅に落ちて・・・一体どうなったのでしょうか。想像するのも嫌です。願わくば、世界の富が一部に集中している今、それこそ金持ちなら国単位の熱帯雨林を買い上げることも可能なのですから、新しい貴族たちにその点で頑張って欲しいような・・・。
似たことかどうかわかりませんが、沖縄の米軍基地も非難ばかりされていますけど・・・あれがなくて他を覆った野放図な開発に委ねられていたら、沖縄は今ごろ死んだ岩山かも。確かに米軍自体も赤土や実弾射撃、大量の鉛や劣化ウランまでばらまいていますが、開発とどちらがましだったか・・・。少なくともジャングル戦の訓練のため、広大な原生林を保存しているのです。
「錬金術」には、世間一般がイメージする「鉛を金に変えて、差額で大儲け」という面と、「真理の探究」という面の両方があります。科学と全く同じですね。
そして気になるのは、特に今の科学には「真理の探究」の面が影を潜め、完全に「儲け」以外なくなってしまっていることです。かつてSSCが中止された時、当時素粒子物理学を学んでいたもっとも優秀な大学院生たちが、その数学的才能を買われて一斉にウオール街に引き抜かれた、と聞いたことがありますが、それがとても象徴的です。今後の科学の中心になる、と言われる遺伝子工学にしても、中心的なこと(遺伝子の正体=DNA、それに関わる分子の構造、その化学的様態)は解明されています。研究されているのはただ、いかにそこから特許を取り、新しいビジネスを生み出すかだけ・・・とても寂しいです。
億万長者以外の夢を持てない時代、というのは寂しいことです。かつて誰かの言葉に、「ペルシャの王になるより幾何学の定理を一つ証明したい」というのがありましたが、それほど本来純粋な好奇心からの探求に、多くの人が情熱を傾けたというのに・・・。
時代劇を見ていると、どうしても「円陣組んで囲んで、一、二の三で一斉に脇差を投げ、次の瞬間に斬りかかればどんな達人でもよけようがない」と思うのですが・・・ま、刀は武士の魂ですから、それを投げることには抵抗があるのでしょう。まあ、時代劇にいちいちつっこみを入れてもきりがないです。
遺伝子操作で「注文した」ウイルスを利用してガンを治すことはできないのでしょうか?
ガン細胞は、もちろん多少の変異はありますけど、元は一つの細胞です。だから、内視鏡ででも細胞を取り出し、それだけを殺すようにプログラムされたウイルスを作って、それを注射すれば・・・。
もちろん、抗がん剤にも共通する「他の健康な細胞とガン細胞が似過ぎている」問題はあるのでしょうが。
捨てられ、ガス室で処分される多くの犬猫・・・捨てたことが発覚した飼い主は、三日間そこで働くことを義務づければ減るかもしれません。それに、一番の問題は特に賃貸集合住宅のペットに対する極度の不寛容と、単身赴任や転勤の多さでしょうね。
でも、もし日本人が犬や猫を食肉として、そしてその皮革を利用するのに抵抗がなければ、とても有用な資源になるような気もします。非人道的?命の重さはイワシも犬も牛も人も鯨も同じでは?
最近は恋愛の階層分化が進み、もてない層は徹底的に異性に縁がない、と聞きます。
異性に縁がないと同時に風俗を利用しない男性、そして風俗がほとんど存在しない女性は、必然的に親離れ以来ほぼ完全にスキンシップからは切り離されて生きている、ということです。
それは人間として、大丈夫なのでしょうか?人間にスキンシップは本当に不要なのか、それがかなり不安です。特に引きこもりと言われる人間は、もう何年も(彼らが最後に親に抱きしめられたのは十年も昔のことでしょうし)一切対人スキンシップなし・・・人間は本当に、それ無しで生きていけるものなのでしょうか。まあ、修道院で一切のスキンシップを断ち切って生涯を送った人は相当な人数ですから、心配ないのかもしれませんが。
もし、「プレイステーション2」を内蔵したテレビが出たら?それにケーブルテレビを利用したモデムとブラウザも内蔵し、プレイステーション2のコントローラーを通してインターネットもできるような・・・それが次世代の標準になった時の、ソニーの利益と直接間接含めた権益は想像もできません。
プレイステーション2からゲームとDVD、それにオーディオプレイヤーとしての能力も持ち、さらにインターネット端末としても機能し、あ、さらにハードディスクを用いた映像記録能力も持っていれば、ビデオの機能の相当部分も可能ですし、次世代の標準的な家電となるかもしれません。
問題はインターネットの内容をプリントアウトする能力がないことと、世代交代に対応できるかくらいでしょう。
アメリカで株価が落ちているようです。来るべき時が来たのか、そうでないのか・・・慎重に見ていましょう。
それにしても、恐慌の時にはどうすればいいのか、それがいくら調べてもわかりません。
すっかりワイドテレビに誰もが慣れていますけど、あれは本来かなり画面を歪めているのですよね?それを誰も意識していない、というのが恐ろしいものに感じられます。
それにしても、なぜ・・・特に大型のテレビはワイドばかりになったのでしょうか。やはり将来のハイビジョンを見越してでしょうか?でも、ならなぜ今から無理に画面を歪めなければならないのでしょう。それに、今の段階で・・・画面の上と下を切り落として歪みを作らずに広く表示することはできないのでしょうか。第一、映画でちゃんと広く取ってある映像を映す際にも・・・それを普通の画面に今まで通り入れて、さらに左右に広げているだけ、もし画面をノーマルにしたら上下にも左右にも無駄があるという最悪の状態です。せめて映画画面を写す時にはそれに合わせて欲しいものですが。
この混乱をはやくなんとかしないと、特にワイドで余計に太って見えるから、と芸能界志望の女子のダイエットがますます過激になって命に関わる危険があるのでは?
視覚と聴覚を利用した機械はとても発達しています。電話や映画、テレビ、オーディオ、パソコンにゲーム機と・・・。
でも、嗅覚と触覚、味覚は信じられないほど利用されていないですね。例えば、映画に匂いがあったらどうなるでしょうか?また、場面に応じて自在に映画館の温度を変えたら?溶鉱炉のキャットウオークの上での死闘がただ音と映像だけでなく、実際に血の味と匂い、サウナ並みの室内温度で演出できたら!特にレンタルビデオのように気軽な媒体で、嗅覚だけでも再現できたら面白いと思います。
そういえば、光と音はごく単純な線形方程式で記述できますけど、嗅覚や味覚、触覚はそうはいかないようですね。それが利用しにくい理由なのでしょうか。
歴史の中、個人にはどれくらいの力があるのでしょうか。最も簡単に言いますと、タイムマシンを使って子供のうちにヒトラーを暗殺していたら、第二次世界大戦やホロコーストは防げたのでしょうか。
防げなかった、と言う見方もあります。第二次世界大戦が起きたのは第一次世界大戦以前からの、ドイツと言う国自体にあった膨張傾向や、それを屈辱的に扱い、経済も崩壊させた連合国の戦後処置が元で、そしてホロコーストも以前からあったユダヤ人に対する憎悪が経済的苦境で爆発的に高まっていたのであり、単にヒトラーは準備された火薬についた火花に過ぎない、たとえタイムマシンを使ってヒトラーを無力なうちに暗殺しても、頭になる人間の名前が異なるだけで、起きることは何も変わらない・・・とも思えます。
さらにニュートンやアインシュタイン、コロンブスのような巨大な力を示した個人も、「たとえ彼でなくとも」歴史がそれを準備していた以上、誰かが同じ事をした・・・と考えることもできます。
しかし、特に天才たちの能力は、あまりにも常人とは次元が違いすぎます。到底同じ種とは思えないレベルです。僕には、やはり個人の力はあると思います。結局は歴史から逃れられないとしても、その歴史の中でまぎれもなく数多くの個人が輝いています。
もし、人間の指が左右各六本あったら、一体どうなっていたでしょうか。ただ小指の隣に同様の指がもう一本、ではあまり面白くありませんから、親指の隣に同じように人差し指から小指までと向かい合う形の指がもう一本。
まず、一番大きいことは指が六本、左右合わせて十二本ですから、当然数学はすべて12進法で進むことになったはずです。指が十本にもかかわらず六十進法や12進法が時計などあちこちで見られることからわかるように、12進法は10進法より便利です。だから、数学の進歩も現実に比べて早かったかもしれません。
また、第六の指が小指の隣ではなく親指の隣か、さらに小指のとなりだけれども人差し指から小指までと向かい合う形の指だったとしたら、物を握る力や握り方が大きく変わりますから、剣術の構造も現在とは別になっていたかもしれません。それに、木登りもしやすくなりますから、樹上生活がよりしやすくなっていたでしょう。もしかしたら森から出る必要がなかったかもしれませんし、樹上生活が文化の選択肢として、もっと大きいものになっていたかもしれません。
そして、ピアノ曲はどうなるのでしょうか。人間の指が十本、というのが、ピアノの作曲においてどのような影響になっているかは、指が六本の人間のためのピアノ曲など誰も考えないため普通誰も意識しません。すべての曲がまったく違うものになっていたと思います。
とうとう南北朝鮮の首脳会談が実現、ということですが・・・どうなるのでしょう。一応協議がある、と言ってもその中身は話にならないです。会議そのものが順調に行くかどうかもわかりません。もしも本当に金正日が出席するとしたら、以前からささやかれていた死亡説や傀儡説、重病説が怪しくなってきますが・・・。
でも、この事態は正直予測していませんでした。そして気付いたのですが、今まで僕は北朝鮮の崩壊は当然で、どうやっても避けられないことと考えていました。でも、可能性としてはこのまま、今までのように一年延ばしがずっと続いて何十年も崩壊しないこともありうるのかもしれません。北朝鮮の体制そのものはどんなにめちゃくちゃでも、内部での反乱やクーデターが不可能と言っていい状態で、しかも近隣諸国はどこも崩壊を望んでいない、どの国にとっても北朝鮮の崩壊は国益にならないですから、周りがとことん点滴のように援助を続けて生命は維持させる、ということもありえます。
イエス=キリストの時、彼を拒絶したファリサイ派やサドカイ派の教師たちは、一体どのようなプロフィールの人物であれば本当に「神の命令で動いている者」や「救世主」と認めたのでしょうか?
ダビデの正当な血筋の、高貴で実力ある富裕な家柄の出身で、圧倒的な学識があって、律法に忠実で、あらゆる奇跡を群集の前だけでなく、教師たちの目前ででも自在に起こせて・・・そんな存在でしょうか?
本物の条件は一体何か、ユダヤ教自体将来の救世主を確か諦めていないはずですし、同様にキリスト教も将来のイエスの再臨を待っている宗教です。その時、それが本物だと判定する基準について聞いたことがないのですが、どんなものでしょうか。
ユダヤ教を源泉にするキリスト教、イスラム教に共通するジレンマですが、自分の教祖を最後の預言者、としなければならない・・・これはかなり虫のいい話だと思います。
自分の宗教自体が「次の神の命令を受けた預言者」によって否定されるのを防ぐために、もう最後の審判に至るまで「次」はない、今後神によるお告げを口にするものはすべて偽者で、だから人心を惑わし、神を侮辱する罪人だとしなければならない・・・。
埼玉ストーカー殺人事件、事件報道だけを見ていますと、埼玉県警と犯人がぐるとしか思えないです。
でも、現実は決してそんなことはなく、ただ単に「前例踏襲」が骨の髄まで染み付いているから、恋人同士のもめごと、すなわち私的なこととみなして、できるだけ事件になって厄介なことにならない方向ですまそうとしたのでしょう。それが、少なくとも当時、恐らくは今も警察が批判を避けるための慎重な配慮だったと思います。でもそれは同時に、家庭内における暴力やストーカー行為、いじめが発展した犯罪などの多くを事件にせず押し殺す形で闇に葬ってきた、ということでもあるはずです。
批判を避けるため「余計なことはしない」という方向は間違っているのでしょうか?今は少なくとも、新潟県少女監禁事件でもそうですが、不作為=怠慢として強く批判されています。でも、果敢な行動もまた、より以上の批判を呼ぶと思います。特に、犯罪組織対策に積極的に取り組むための通信傍受=盗聴があれほど激しい批判を浴びるのですから、組織に対する束縛は大きいはずですし、だからこそ組織防衛に入ってしまうと思います。
ではどうすればいいのか・・・と言っても難しいことです。
武器の進歩は、意外と社会の構造そのものに深く関わっているような気がしてきました。
例えばアメリカ独立戦争を成功させた要因に、民兵がありました。その民兵の装備は自前でした。その頃は、一般市民が狩猟や自己防衛用に所有、使用していた銃、つまり武器と、相手であるイギリス軍の保有する銃が同等の性能で、だからこそ勝利をもぎ取ることができたのでしょう。
今は、一般の個人が所有できる武器と、正式な軍隊の持つ武器には大きなギャップがあります。確かに歩兵用のライフルは個人の保有が可能ですが、ジェット戦闘機や戦車、核ミサイル、情報システムなどの巨大な組織、装備はどんな大富豪にも保有、維持、管理できるものではないでしょう。つまり、独立戦争当時と現在とは、市民と国家の力のバランスは大きく変化している、と考えざるを得ません。
他にも、例えば剣から銃に武器の主役が移った時には、高度な肉体的訓練が必要な剣から、むしろ知的能力のほうが重要な銃に移行した・・・これも社会構造を大きく変化させたと思います。それこそ木と石から青銅、青銅から鉄、馬の出現など武器に関する技術革新が歴史と社会構造をどう変えていったか、興味深いテーマです。
昨日買い物に行き損ねて今朝冷蔵庫に材料があまりなかったので、何年か前冗談半分で恐怖の大王対策に買っていたMRE:Meal Ready-to-Eat Individual(米軍の携帯用保存食)を開けました。
ビデオテープくらいの大きさの分厚いビニールの中身はいくつかの袋でした。スプーン、塩、砂糖、タバスコの小瓶、粉末クリーム、インスタントコーヒーの小さい袋、ガム二粒、小さな濡れティッシュとご丁寧にもマッチにトイレットペーパーまで入った袋、乾いた麺とレトルトシチュー(これは箱に入っていました)、袋入りのクラッカーとピーナッツバター、粉末ジュース、M&Mチョコレート一袋、チョコレートでくるんだクッキー。さらに全体を火を使わなくとも、水を入れるだけで暖めることができるパック。それが一食分とは多すぎるような気もしますが、まあ巨漢のアメリカ兵が一日中動き回る食事なのですから、それくらい必要かも。味は・・・美味くもないですが、ひどくまずいと言うほどでもないです。ジュースが不味かったですけど、クッキーは普通のスーパーで手に入る程度の味でした。
でも、実際に開けて食べてみて、味はともかくその至れり尽くせりの便利さには驚きました。栄養もかなり配慮されていますし、しかも5年間も保存できる性能を考えると、地震などの自然災害、それに一人暮らしの人間のためにはこれ以上便利なものはない、とも思えます。
できることなら、このような便利な品がスーパーマーケットで気軽に、安価に手に入るといいのですが。他にも米軍や自衛隊が使っているものには、特にアウトドアや災害時には色々と便利なものがあるので、軍隊らしさを除いた市民用を量産して特別な店でなくても気軽に手に入るようにして欲しいものです。
話が少しずれますが、この間不祥事として自衛官が友人に銃を撃たせた、と言う事件がありました。事件自体は言語道断ですが、それが許可された事業として料金を払って楽しめたら?相当な需要があることは間違いないです。現実に訓練でしているように厳重な監視の上で、それでも撃ちたい人は相当多いはずですから。
大学、否教育システム自体三つくらいに分割したほうがいいような気がしてきました。
まず、特に優秀で向学心や才能のある層を対象にした、既存の大学とはまったく違うシステムで、年齢自由、大学の教養レベルの学力か特定分野の特別な才能が入学条件で、入るのも難しいし出るのも難しい特殊な高等教育機関があれば、大学の大衆化による絶対的な学力の低下をもっとも優秀な層にまで波及させないことができると思います。この層は研究に特化した教育を受け、大学院での研究を前提に6年制(ただし、その6年間で博士号レベルまで)にするのがいいと思います。
あと、長期的な視点で社会、否歴史を導いていくような、指導者のための教育も考えるべきかもしれません。
そして中間層を対象にした、現在の義務教育化した高校と大衆化した大学をまとめたシステムとして、中学と高校を統合して小学校6年、中等教育6年、それに希望者には職業に就きやすくなるように実務的な能力を優先した高等教育を4年とし、中でも優秀で向学心の高い層は特殊高等教育に移れるとしたほうがいいでしょう。
大学院の扱いは難しいのですが、特殊高等教育の中での大学院教育と、中間層のための、現在の大学に近い高等教育の延長としての大学院に分かれると思います。
そして、現在かなり多いと思われる「授業についていけていない」層を対象にした中等職業教育も必要だと思います。授業についていけない、ドロップアウトを解決するのに一番いい方法は「学年到達度試験」を使った進度別小人数クラスなのですが・・・。工業高校、農業高校などが現在は単に授業についていけない層のための高校になってしまっている現状を何とかしなければ。また、多くは高卒で社会に出るものから出てくる、社会にとっては紛れもなく不可欠な職人、つまり高度な技術を持つ熟練労働者が十分な社会的尊敬と自尊心、そして報酬を与えられていないのも問題ではないでしょうか。技術そのものに目的意識と自尊心を持てるような中等職業教育・・・これについてどうすべきかははっきりまとまっていません。漠然としています。
マイクロソフト社が独占禁止法に触れた、と言う判決が一応出ました。懸念は、それがきっかけでネット株の過剰な高値が崩壊し、そのままアメリカのバブルが崩壊、そのまま世界恐慌に陥るシナリオですが・・・。
もしそんなことになったとしたら、「正義」の意味そのものが問われかねません。独占禁止法という法は企業の力が強くなりすぎ、正しくない道で競争を封じ込めることは「正義」ではない、と言っているようなものですから、この独占禁止法を貫くことは「正義」に他なりません。でも、その結果世界恐慌という巨大な惨禍を引き起こしてしまうとしたら、それは果たして「正義」なのでしょうか?「正義」のためなら世界恐慌もやむを得ないかどうか・・・もちろん、それほどの大事にならないで、石油や煙草のように分割されたマイクロソフト社がいくつかのメジャーになって、健全な業界になってくれる・・・といいのですが。
小渕総理大臣の入院、それも脳梗塞と言う重病・・・何となく、ですが、このハプニングは日本の歴史そのものにとって、かなり大きなターニングポイントになるような予感がします。
それにしても十何時間か、日本には指導者なしですか・・・まあ、日本の首相に核のボタンとかのような大きな力を期待する人はいないですから、別にいいと言えば別にいいのですが、その時に万一有珠山が昔の磐梯山のように大規模な水蒸気爆発を起こしたりしていたら!
ワープロソフトに縦書きが少ないことに悩んでいます。
同人活動のほうで、縦書きができるのは古いパソコンにつながっているピクティというプリンターだけで、古いほうのパソコンにはいいワープロソフトがないので段組も両面印刷もできないのです。しかも、そのプリンターは最近、完全に接続がいかれてもう終わっているのです・・・。
そして、今使っているWin95と今手元にあるロータススーパーオフィスや以前使っていたワークスなどには、いくら探しても縦書き機能が見つかりません。新しいほうのパソコンについているプリンターには残念ながら縦書き機能はなく、現在はどうやっても縦書きはできません。確かに仕事で縦書きはほとんど使わないと思いますが、なぜここまで徹底的に縦書きがないのか疑問です。
それにしても、ワープロソフトは僕の乏しい知見ではまだまだ、紙と鉛筆の気軽さには遠く及ばないですね。それに数学文字を記述する力もとても弱いです。できることなら「紙と鉛筆」の感覚で、ポイントしたところから縦書きも横書きも自在にでき、しかもマウスのドラッグで落書きをしたり、さまざまな定規やコンパスを使っていろいろな線を描いたり、更にその中を塗りつぶしたり、そして数式もどんどん書けて、書いた上で操作すればさまざまな演算もできるし等式の同値変換もできる・・・そんなシステムがあれば本当に便利なのですが。
有珠山が噴火し、多くの周辺住民が避難しています。
以前の雲仙普賢岳や阪神大震災でも問題となりましたが、自然災害で多くの住民が避難し、しかもそれが長期化する際にはペットをどうするかがとても深刻な問題だと思います。
できることなら、火山の近くや大きな河川の流域、特に河口付近など、自然災害の可能性の高いところには大規模な避難用の施設を設置し、いざと言う時にはそこにペットも連れて避難できるようにしておきたいものです。三十年に一度は吹くと分かっている山の近くの割には、あまり対策が練られていなかったような気がします。
不安定な避難状況では、心のケアにおいてもペットの意味は大きいと思います。まして自宅に放置して餓死させるなど、第三者の僕でさえ心情的に耐えられないのですから、本人たちにとってはどれほどの心の傷になることか。
新大陸発見前の旧世界、特にヨーロッパ人の食卓とはどんなだったのでしょう。玉ねぎも唐辛子もジャガイモもない、そんな西洋料理が思い浮かぶでしょうか?
あ、そう言えば古代ローマ帝国や新約聖書の舞台、さらにさかのぼって古代エジプト、それに西洋文明から離れて唐の時代の中国など歴史の中で「何が食べられていたか」には不思議なほど関心が集まりません。さまざまな時代の食を口にすることも、もしできたらいい歴史の勉強になるのではないでしょうか。それも当時の衣服を再現して、それを着て当時のマナーを守って、当時の調理器具も再現して実際に使ってみて・・・とできたら最高ですね。
あ、今いろいろな地方の食物を、それも日本で食べるものはすべて日本人向けの改良がかかっていますから直接現地で口にするのもいい地理の勉強になるような気もします。