枕元の計算用紙
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数学や物理の、コンピューターを除いた学部分野の大半で初版第二次世界大戦前の教科書が通用しています。
言い換えますと、その後にできた分野は学部で学べる代物ではない、と言う事でもあります。それだと、院に進学しない大半の学生は現在の科学については、結局は無知に近いと言う事です。人間の能力の限界もあるのですが、実に残念な事です。
もう一つ不安なのが、特に数学のように若さがないといい研究が難しい分野では、先端まで習得するより老いるほうが先になってしまわないか、ということです。
こんな、超初心者用のパソコンがあったら便利だと思います。
売るのではなく有料リースのみで、小さい机と一体化しています。そしてその机には、前にディスプレイがあり、手元の引き出しを出すとキーボードになっていて、横に二つほど引き出しがついています。そして、さらに机の上には電話機、郵便受けのような箱、そして「メモ帳」と書かれたノートのようなものが一冊、辞書、時刻表、カレンダー(どれもおもちゃのように中身がなく、ただのスイッチです)、CDプレイヤー、呼び鈴などが置かれています。
まず机に向かい、普通に電灯を点けるようなスイッチを入れるとパソコンが起動されます。そして、まずWindowsに当る機能では「デスクトップ」が表示されますが、ユーザーはまず郵便受けの蓋を開けるとします。そうすると、連動してパソコンのメールソフトが起動し、自動接続で受信メールを表示します。更にそれと同時に、メールボックスの中にある小さな表になっており、それぞれのメールに対応するボタンがあるディスプレイがメールの送信者や受信者を表示し、箱の中の操作で選んだメールがディスプレイの中で開かれます。ただし、同時にメインのディスプレイ上では、その時に「本来している」動作を、マウスをクリックするのとキーボードでするのとの両方を表示します。
また、電話機も普通に使えます。インターネットとつなげる時には自動的に受話器が外れ、通話している事を示します。受話器をかければ「切断」できますし、切断したら受話器がかかります。また、メインディスプレイはタッチパネルになっていて、そこで操作する事もできます。
CDプレイヤーは、一見して普通のCDプレイヤーであり、電源を入れるとパソコン内で起動されて操作パネルで普通に鳴らす事もできます。もちろんある程度覚えたらCD-ROMドライブとして使えます。
そして、「メモ帳」と書いてあるノートのようなものは現実にもあるページをめくれるペンタブで、始めのページはアルファベット、次が数字などの記号、その次がひらがな五十音図、そしてその次からしばらく常用漢字の音訓索引。これで何とか、何も知らない人間も文字がつづれるでしょう。ノートの脇には「ページを捨てる(=全て選択→削除)」と書かれたボタンと、有線のおもちゃの消しゴム(こする動作をするとBackSpace)があります。そして、これは現実と少しずれるのですが、ハサミのような形のものもあり、それでディスプレイを触ると「切り取る」事ができます。同時にディスプレイに別ウインドウでクリップボードが表示され、ノートの脇にある「のり」の形をしたボタンを押すと「どこに貼り付けるのか画面を触るかマウス操作で選んで」貼り付けることもできます。ノートを閉じるとファイルも閉じられ、「名前をつけて保存」に当る操作で画面には、そして同時に音声で「作った文章に名前をつけて下さい」と表示されて、もう一度ノートを開いて適当に書けばいい、ということです。もちろん、全ての操作は「本当はどうするか」マウス、キーボード両面で別口に表示されます。
辞書、時刻表、カレンダーも開けばパソコン内のソフトが起動され、閉じると終了します。ただし、記入しなければならない所では「ここに表示したい内容を書くため、メモ帳(上のペンタブ)か下のキーボードを使って記入して下さい)と表示されます。
呼び鈴はヘルプです。一度押すと起動し、もう一度押すと終了します。起動と同時に画面と音声で「何がわからないのか、メモ帳(上のペンタブ)か下のキーボードを使って記入して下さい」と出てくる・・・キーワード検索が優先されれば、ある程度分かると思われます。
そして、「C」と書かれた机の引き出しを開けると、同時にパソコンはC:ドライブを起動します。机の中には本物のフォルダがいくつかと、その中にいくつかファイルがあり、そのフォルダを開き、ファイルを開く動作をすると実際にパソコンの上でもそれを行います。また、しまうと閉じます。Windowsで一番重要な、ファイルやフォルダを理解するには、手でそれを操作するのがベストでしょう。
また、既に上で書かれた「メモ帳」を使って書いた内容を、ノートを閉じながらそのノートを引き出しの中のフォルダに入れる(ふりをする)ことで、フォルダ内に保存する事ができます。
最後に本体のスイッチを切ると、「Windowsの終了」と同じように正しく電源が落ちます。
そして徐々に、同時に画面上で行われるマウスやキーボードの操作をやってみる事でパソコンを覚えていく・・・かなり覚えやすい方法だと思います。ちょっと分からないのは、ブラウザをどう具体的に表現するかです。
スポーツの、特に球技のルールを微妙に変えたら、どうなるのでしょうか?
例えばサッカーに、バスケの三十秒ルールのような「1分以内にゴールできなかったらボールを相手チームに」と入れたり、あるいは11人から21人にしたり、オフサイドをなくしたりしたら。
バスケットボールも、普段普通のルールでやっている人がNBAルールでプレイしたらどうなるのでしょう?単純に、三十秒ルールを24秒ルールにし、シュートの条件をボールがリングに当るとしただけでもかなり違うと思います。
なんとなくですが、ルールがゲームを構成している、それこそ地球人と同じ体格の異星人なら、電話でルールを教えても同じゲームを再現できるようになっている・・・スポーツのそこは数学に似ているような気もします。数学も、公理と言うルールからその全てができているのですから。
本来清潔でなければならないのに、清潔を保つのが非常に難しいものは多いです。
車のエンジンルームの中、エアコンや洗濯機、冷蔵庫などの内部、家屋の壁の中や天井裏、床下など・・・そういった物をきれいにするのは新調するしかないのが現実です。
何とかそういった物をきれいにする術はないのでしょうか?問題は、それらを掃除するのは人間の手から見て小さすぎる事です。ごく小さな機械の技術が進歩すればなんとかなるでしょうか。
今回の「神の国発言」騒動、僕はふと以前、自民党と社会党が連立をしていた頃を思い出しました。
あの時、連立しているからと社会党は、従来の主張を根こそぎ否定しました。自衛隊を肯定したことを始め、その支持者に対する背信行為がその後、党の存在意義を消し去って政界から事実上社会党が消え去る事につながりました。
現在、支持者の声を無視して森総理の釈明を受け入れている公明党も、そのせいで次の総選挙において敗北する危険はないのでしょうか?もちろん、宗教団体を基礎においている公明党は社会党とは違い、理念で維持されていただけで不満が出ただけで崩壊するような脆さはないと思いますが。マスコミや野党のヒステリックな追及も何ですが、もし野党の立場なら一番激しく攻撃すると思われる党の迎合姿勢を見ると、連立の恐ろしさが何となく分かるようです。
もっとも単純な疑問・・・環境を守れる政治経済形態は?
もちろん、前提として近代文明を持った上で。答えは、今の所存在していません。社会主義も自由経済民主主義も開発独裁もファシズムも、全て環境を破壊しました。
よく考えてみましょう。今勝利者と目されている自由経済民主主義は、将来何らかの調整の元で持続可能な社会に収束できる可能性を持っているのでしょうか?それとも、どうやっても無理なのでしょうか。
一番の問題は、競争による選別、適者生存を原理にしている自由経済民主主義を取っていると、確かに原理的には自然を破壊する企業や生活様式は淘汰される、はずですが、自然破壊による影響が実際に出るには時間がかかりすぎ、かつそれが出た時には地球そのものが危ない、という点です。あまりにも悪影響が長期的だと、選択が働きにくくなるのです。人間は、ひ孫の為に今の便利を捨てられるようにはできていないのです。競争で最も環境を破壊しない企業や生活様式を選ぼうとすると、どうしても結果が出る前に地球は死の星になってしまうのです。
何らかの別の体制を定めれば、それで環境を守って持続可能な状態を維持しつつ近代文明に基づく生活様式を保てるのでしょうか?それとも、近代文明はその存在自体、絶対に環境を破壊しつづける、本質的に持続可能性のないものなのでしょうか。
今ハイティーンの凶悪犯罪が異常に多いですが、もしかしてこれには報道も関わっているのではないでしょうか。
報道によって、様々なストレスを抱えつつも言葉に出す事ができない少年少女が犯罪というはけ口を見つけ、爆発させているのではという気がします。例えばバスジャック犯が別の殺人事件に対して先を越された、と供述している事からも、次々と起こる犯罪がまるで残虐さを競い合っているかのような印象を感じます。
ゲームやホラー映画、マンガなどの残虐描写が犯罪を生み出しているという言葉はよく聞きますが、報道と犯罪の相関性はないのでしょうか。残虐描写が悪いのなら、必然的に残虐な事を描写している事件報道や事件を詳述した書物(数多くあります)、それ以上に極悪非道の極みを集めた戦争博物館や原爆記念館、歴史上の拷問用具の展示、アウシュビッツに関する資料の展示なども悪影響があるのではないでしょうか?これら、本当にあった残虐な事実を子供に伝える事には悪影響はないのでしょうか。やはり真実はそのリスクよりも高いのでしょうか。
我々は、この人に対して何か言う資格があるのでしょうか。そして、彼の生涯は一体何だったのでしょうか。そして、彼は天国にいるのでしょうか。人間のある行為が善意であるか悪意であるかは、意味があるのでしょうか。
アメリカの医者で独立宣言の署名者の一人、ベンジャミン=ラッシュ。1793年にフィラデルフィアを黄熱病が襲い、当時アメリカで最大の都市だったのがゴーストタウンと化した時、一人残って献身的に病人の世話をしたそうです。もちろんみずからも感染し、生死の境をさまよいながら報酬を求めず、不眠不休で。
彼は古い、そして今我々は現代医学から効果がなく、害しかないと分かっている寫血;静脈から出血させる治療法の、当時では当然ながら支持者で実践者でした。だから、彼の献身的で英雄的な治療は、むしろ多くの患者を殺したという事が分かっています。
では、彼がした事は間違っていたのでしょうか?それは絶対に違います。彼の時代では寫血は正しい治療法と多くの学者が認めていた、正当な行為でした。そして、むしろ放置されていたほうが助かったかもしれない患者であっても、伝染病で家族にも見捨てられた絶望の中彼の暖かい手と勇気を感じ、魂の幸福を得たまま死んでいったはずです。そんな死よりも、見捨てられ、絶望した中での自力での回復のほうがいいのでしょうか。彼は当時の医学の中で、患者の為に最善を尽くしたのです。
黄熱病、といえば野口英世の名前も浮かびます。彼の命を捧げた努力は、今の我々は風車に挑むドン・キホーテに過ぎない、と分かっています。黄熱病の病原体はウイルスであり、当時彼が持っていなかった電子顕微鏡でしか確認する事はできないのです。でも、その努力の崇高さに変わりはないと思います。結果も方向も間違っていたとしても、少なくともそのような失敗がなければ進歩もないのです。
結果だけを判断する思考法に慣れていると、どうしても結果論でそれらを責めてしまいますが。
コンポストなどの生ゴミを堆肥に変える道具が身近な店でも売られるようになっています。どれくらい普及しているのかは分かりませんが、ゴミの大幅な減量と堆肥の入手、一石二鳥とか。
ですが、そのできた堆肥は自分の家の庭・・・より多くの集合住宅の、わずかなベランダの植木鉢で消費できるものでしょうか?無理だと思います。
なら、必要なのはそれを何とか買い取って必要としている場所に売るシステムです。同様に、例えば台所の食用油も石鹸にできますし、その他もろもろ・・・多くのゴミは、徹底的に分ければそれなりに使えると思います。
ただ問題が、「誰がそれを分別するか」「誰がそのコストを払うか」「その環境負荷の収支は結局どうなるか」などだと思います。どれも非常に困難です。ゴミの分別は非常に手間のかかる作業で、危険も大きいです。各家庭で行えば比較的コストはかからないですが、生活のしやすさを大きく落としますから、全ての人間に協力させるのは非常に難しいです。また、リサイクルは一般に原材料から作るよりコストがかかってしまいます。結果的に膨大な量の古紙やペットボトルなどが分別され、集められたまま再生作業に取り掛かれないで放置されています。そして、リサイクルをする事でかえって環境に負荷をかけてしまう物もあります。
僕は、「誰が分別するか」はあくまで各家庭の責任だと思います。それについて、罰則を含めた(違反者は罰金または分別作業、清掃作業などの社会奉仕)義務規定を設けるのはとても難しいでしょうが、それが正しいと感じます。「誰がそのコストを払うか」は、やはり政府・・・国または自治体であるべきでしょう。外部経済を調整するために政府がある、というのは古いですが経済の常識です。「環境負荷の収支」について、運動に流される事なく冷静に計算する努力も必要だと思います。
神話について学んでいて、「呪い」の恐ろしさを見ていると・・・ふと、現代の文明もまた、呪われているのではと言う感じを覚えました。西洋文明、つまりキリスト教と産業革命がセットになった、無敵の力を誇るこの文明自体が無敵の代償として破滅を宿した呪われた魔剣なのではないか、そしてそれを手にした者たちが世界を制覇した以上、もう破滅は避けられない運命なのではないか、と。
でも、今の考えにはいくつかおかしい点があります。単なるイメージであり、何ら根拠がない事です。どうしても忘れてしまうのですが。
「呪い」説を補強するのは、「西洋文明」=「精神的にはキリスト教と資本主義を基本に置き、他の文化圏、人種に対する強烈な優越意識を持って呵責のない徹底した侵略、収奪を行う。科学技術を物質的な基礎とし、大量生産大量消費大量廃棄を無制限に拡大する事で維持される活動様式。」とでもなるのでしょうか?
正確な定義はとても難しいと思いますが、この文明様式が無敵であり、軍事的に対抗しうる文明形態が考えられない事です。そして、それの制御がいまだに成功していない事、そして大量生産大量消費大量廃棄を無制限に拡大する事は地上が有限である以上不可能であり、いつか限界が来る事です。
ただし、この文明の制御が本当に不可能なのかどうかは、他の例がないのではっきりした事は言えません。
この文明形態は、本当にどうやっても軍事的に対抗不可能なのでしょうか?これについては、もちろん現実に対抗できる文明圏はありませんでした。どの文明圏も、西洋文明が生み出した近代兵器とそれを扱うための戦術を手にする事なしには、どうやっても相手になりません。弓と馬と槍ではどうやっても、どれだけの数でも戦車と戦闘爆撃機から投下されるナパーム弾、そして核兵器・・・そんな大袈裟なものを持ち出さなくても、機関銃に対抗できません。
では、そのような近代兵器を開発したのはなぜ西洋文明なのでしょうか?銃器の発明も中国のほうが先です。日本は西洋より先に微積分と線形代数にたどり着いています。それが運動方程式に結びつかなかったのは偶然なのでしょうか、それとも必然だったのでしょうか?日本や中国、それにイスラム文明やアメリカ先住民文明が西洋からの侵略を受けず、連絡もできないままでもう何百年か放置されていたら自然に産業革命にたどり着けたのでしょうか?これについては今となっては思考実験しかできませんが、きちんとやっておきたいです。
大量生産大量消費大量廃棄をこのまま拡大し続けたら破局、これは疑いの余地はありません。
イメージに惑わされないよう、理性を持って破局を避けるためにこの文明を制御し・・・と結論したい所ですが、それについては有力な反証があるのです・・・理性で文明を制御しようとするマルクス主義革命の崩壊は、人間にはこの文明を制御できないことの証明のように感じるのですが、それも確実な証明ではないですね。有力な証拠に過ぎません。疑問の余地がないほどあらゆる場合を尽くしたか、と言われると怪しいものですから。やはり今の所、とりあえず理性を信じるほかどうしようもないです。
フイジーという南太平洋の島国でクーデターが起きているそうです。あらためて、クーデターと言うのが過去の言葉ではない事を思い知らされます。
さて、日本においてはどうでしょうか?日本がクーデターに無縁である事は見事なものです。特に明治維新後、2.26事件以外にはクーデター未遂らしき事件もなかった、というのは実際驚くべきことです。しかし、今何となく危ない気がしているのは僕だけでしょうか?
故小渕前首相から森現首相へ、その過程に不透明な点が多い、敢えて言うなら非合法な宮廷クーデターだった可能性も高い、ということが、クーデターの引金になる危険はないのでしょうか。誰がクーデターなど企むのか、と言う疑問はあるのですが。
人間が、火を覚えてから一番始めに使った調理器具はなんだったのでしょうか。火を調理に使うこと自体は、山火事で焼け死んだ動物の肉が生より美味いし食べやすいことから、と言われています。
最初は、やはり木の枝を串にし、それに肉を刺してたき火にかざして焼いたと思われます。現在のシシカバブなど、串に刺して回転させるロースト肉は多いです。一番単純ですから。獲物を丸ごと焼く前に解体して皮革と肉を別に使うことはいつ覚えたのでしょうか?
火の使い方が進歩するにつれ石を焼いてその上で調理する方法や、おき火を使う方法が生まれていったと思います。根菜を灰の下に埋めるのはその後でしょうか?
そして、穀物や木の実を粉にし、それを水や乳、蜂蜜などで練って焼くのはいつごろ発明された技術なのでしょうか。これには粉にするための石臼が必要になります。始めに焼く方法は串につけて焼くのと石の上に置いて加熱するのと、どちらだったのでしょうか。
オーブンも比較的早かったと思われます。土を盛るか天然の粘土の斜面に穴を掘り、そこに燃料を詰めて火をおこし、充分に加熱されたら灰と炭を取り出して代わりに肉や木の実、穀類を粉にして水で練った生地を入れて取り出し口を密封、しばらく余熱で加熱すれば充分調理できます。これには土器の技術は必要ないですし、遊牧中でも簡単にできると思います。
変形のオーブンとして、現在も南洋諸島で行われているハンギがあります。土に穴を掘って底に焼いた石を敷き詰め、食べ物を置いて水を加えて穴を覆って埋める調理法は穴を掘り、火をつけられればできます。オーブンとどちらが早かったか、興味深いです。
鍋が発明されたのはかなり遅いと思われます。鍋は石器では事実上不可能で、土器を必要とします。今の僕の知識を用いれば、例えば粘土を敷き詰めた地面の穴に水と材料を入れ、どんどん焼き石を入れれば土器を知らなくとも茹でる事ができる、と知っていますが、これを古代人に期待していいかは分かりません。いや!もしかして、もっと早いかもしれません。特に東洋では竹が天然の鍋になりますし、それにもっと原始的な段階でも頭蓋骨が鍋の代わりになり、中の脳髄がおいしいシチューになっていた、という経験はあるはずです。
(ゆでる系統も含めて。オーブンに鍋を入れて煮込むのが正式なレシピに多いです)オーブンを中心とした西洋料理と、鍋を中心にした日本料理の違いを考えるのもとても興味深いです。それは東洋に竹がある事からか、それとも鍋という財産は遊牧ではない東洋でしか生まれなかったのかなど、考えると面白いです。
我々は、身の回りにある植物の名前をどれくらい知っているでしょうか。そして、その毒の有無や薬効は?全く知らないに近いと思います。
もちろん、特に都会生活者は植物にほとんど触れずに暮らしていますが、都会でもその気になればかなり植物に触れる事ができます。街路樹はどこにでも立っていますし、狭くとも公園はあちこちにあります。わずかな土から顔を出している植物も多いです。
僕自身、よく考えてみますとあまりにも知っている植物の数が少ないのにびっくりしています。折角自然の多い新興住宅地で育っているのに、勿体無い事です。
森総理の問題発言ですが、僕が疑問に思うのが、発言を問題にする時には文章の中の一部分を好きなように切り取っていいのでしょうか?それは言葉と言うものに対して礼を欠く事のような気がするのです。
森総理は繰り返し、「発言全体を読めば分かるはず」と言っており、それは間違っていません。そして、その発言全体そのものをマスコミや野党が問題にしているか、というと、そうではない気がするのです。あくまで「日本は天皇の治める神の国」という部分だけを抜き出して騒いでいるような・・・。
例えば、聖書には「サタン」と言う言葉が含まれているから悪書だ、となるのでしょうか?とんでもない、と誰もが言うはずです。また、「白人の中に犯罪者がいるのと同じく、残念ながらごく一部の黒人は悪い事をする事もあるが、原因は差別と貧困、無教育にある。それだけで人種全体を判断してはならない。」と言う発言から「黒人は悪い事をする」だけを抜き出して、差別発言と糾弾する事は正しいのでしょうか?
数学言語や論理言語でさえ、部分だけを抜き出されたら誤解は避けられません。まして、ただでさえ誤解しやすい普通の言語の一部でさえ誤解を招かないように注意しなければならない、となるととても大変です。
もちろん、森総理の発言の真意は戦前の日本社会のいい面を復活させたい、ということでしょう。そのいい面の中に天皇主権や忠君愛国があるかどうかは確信できないのですが。ま、とりあえずああいった社会はマイナス面は多いですが、アイデンティティは保ちやすいですね。
物理量には、エネルギーとその変形である質量を始め「負にならないスカラー量」がかなりあります。もちろんベクトル量の負は、単に方向が反対であると言うだけの事です。他にも虚数の数値の物理量が見当たらない事や、大抵の式が二次または二階式になってしまう事(これには空間が三次元だから、と言うのが大きいのですが)など、あれっと思う事は結構あります。
確かに、ニュートン運動方程式ma=Fの、質量mがマイナスであるとすると、力を加えた逆の方向に加速度がかかって動き出してしまう、明らかに不合理な現象です。そして、マイナスの質量を持つ物質とプラスの質量を持つ物質をいっしょにすると、釣り合って質量がゼロになる、ということになるのでしょう。
逆に、物理法則を微妙にいじって(例えば空間4次元時間1次元として、とか)どうなるか試してみる遊びも面白いかもしれません。数学的にとても難しいので、なかなか上手くできないのですが。
雇用難の前で、我々は今後の少子高齢化について考える余裕がありません。
でも、今子供向け産業の頭を悩ませている子供の異常な少なさは、もうしばらくすれば労働市場に跳ね返ってくるはずです。雇用の絶対的な減少や新卒偏重の軽減などの変化による新卒求人の減少が、これからも世代の人数の少なさを上回り、雇用の苦しさが続くのでしょうか。それとも、労働者が足りなくなる日が来るのでしょうか。
そしてもっと心配なのが、財政問題です。少ない労働者が払う税金で、破綻の度を強めつつある放漫財政のつけを払いきれるのでしょうか。個人の借金だらけの遺産は相続を放棄できるそうですが、破産した国家の遺産は放棄できないのです。また、今後成人する世代はただでさえ人数が少ない上に、フリーターを始め納税額が少ないライフスタイルが多くなると思われます。それをどうすれば解決できるのでしょう。
かと言って今増税したら、どんな事になるか想像もつきません。もしかしたら、増税の代わりに老後の安心感を増すよう、透明感のある福祉制度の充実があれば消費に悪影響を与えないかもしれません。例えば、消費税をもう5%アップして10%にする代わり、その増やした分はすべて破綻寸前の年金や医療保険、そして介護への補助金などに充てる、としてその会計を公開すれば、安心感は増すと思います。
十年後の労働環境が、本格的に進んだ少子高齢化の中、そして進行したIT革命の中どうなっているのか、楽しみより不安感のほうが多いです。
NHK大河ドラマと連続テレビ小説、少し発想を変えられないものでしょうか。
例えば、大河ドラマで日本人にとっての裏の歴史、壮大な虚構の体系(と言っても、太閤記なども結構虚構が多いのですが)である、猿飛佐助始め真田十勇士、裏柳生の暗闘から寛永御前試合まで、講談で愛され、それを元にさまざまな作家が書いてきた事を取り混ぜてとことんやる事はできないのでしょうか。他にも、少なくとも僕にとっては伝説の英雄である本多宗一郎とかの立志伝もいいですし、「田中角栄」とかも面白いでしょう。
連続テレビ小説も、今のような女性が苦労して成功していく話ばかりではなく、もっと何かあるような気がします。
少年による殺人や、殺人に至る集団暴行事件が跡を絶ちません。こうなったらゲームやマンガが売れないのも分かる気がします。生身の人間を壊して遊ぶほうがはるかに楽しいはずですから。その上に少年法で守られ、上手くごまかせばおとがめなし、こたえられないでしょう。
「なぜ人を殺してはいけないの」と、あの世代が14歳の時に聞いてきて、それに大人が答えられなかったのですが、今あえて答えますと
とでもなるのでしょうか。
そして、どうすればこのとどまる事を知らない暴力は止められるのでしょうか?マンガやテレビ、ゲームなどの暴力表現の氾濫がいけないのでしょうか?しかし、それを止める事は非常に難しいです。日本において規制しても、その時には海外から輸入するなどさまざまな方法で求めます。
紛れもなく子供は暴力と性を中心にした刺激を求めているのです。資本主義の論理がある限り、それを止める事はできません。また、その暴力と性を中心にした、俗悪な文化こそ日本が世界に誇りうる、高い輸出性と経済的な力があり、かつその中から高い芸術性のある作品も生み出せる文化でもあるのです。
つまり、暴力と性の氾濫にさらされながら、なおかつ自制心を与える教育がどうしても必要です。それは、やはり信賞必罰が子供の無意識にまでしっかりとインプットされていなくてはならないでしょう。
幼稚園で、白紙に自由に世界地図を描いてみるとか、白紙をボールの表面に貼ってその上に自由に地図を描いてみるとかはやっていないのでしょうか?そして、学年が進み、地理や気象の法則を理解するにつれて、その地図はもっと現実感のあるものにできるでしょう。
また、例えばファンタジーを創作している時、地図作りはかなり楽しい作業の一つです。
つまり、歴史のifと同じ事ですが、地理のifも楽しい知的遊戯ではないか、と思うのです。好きなように大陸を移動させてみたり、好きな場所に大規模な鉱山を置いてみたりして、その空想上の「初期状態」から歴史を始めてみるというのは面白い遊びではないでしょうか?
例えば、地中海が完全にふさがっていたら、逆にスエズが運河を作る必要なく開いていたら、大西洋の真ん中に本当に大きな大陸があったら、逆に日本列島がグリーンランド並みに大きかったら、ヨーロッパに特大の金鉱があったら、北極点を今のハワイに置いたら、インド亜大陸がユーラシアに衝突せずヒマラヤ山脈帯がなかったらなど、まして全くの白紙から好きなように海と陸地を配置したら・・・仮想地理からの歴史や気象を予想するゲームはそれなりに面白いです。ちゃんと遊ぶ事だけでももっと高度な気象学や海洋学の知識が必要なのかもしれませんが。
ストーカー防止法案がついに成立する見通しです。そして、これでストーキングと言う行為がなんとか定義されそうですし、ある程度の歯止めになるか、と期待されてもいます。
もちろん、あれだけで防止できるとは思えません。まだ端緒についたばかりです。六ヶ月以下の懲役及び50万円以下の罰金など、その被害と比べれば軽すぎるくらいですし、親告罪である事も不安点です。下手をすると逆恨みによる復讐がエスカレートするリスクもあります。
ストーカー対策として、本当に必要なのはまず被害者の安全を確保し、その強烈な心の傷を癒す事です。そのためには法的な、または民間の警備会社に公費で委託してでも完全な身辺警護を実現することが必要でしょう。
そして、たとえその被害者を諦めてもまた次の生け贄を求める加害者を、完全に二度と邪悪な行為ができないよう永久に人間社会から隔離するか、または命を絶つか、または現実的には不可能に近いですが強制的に治療するかして、始めて根本的な対策になると思います。そのためには、特に刑務所及び拘置所における精神鑑定を直接強制的な治療に結びつけるプロセスと、人格障害に対する精神医学のいっそうの進展、そして事前に予防するための予防的精神医学の研究が急務だと思います。
シェラレオネ、というアフリカの小国で起きている事・・・これについて、皆さんはどれほどご存知ですか?
僕もそれほど知ってはいません。ただ一つ知っている事は、その国が世界から見捨てられていることです。
そして、特にアフリカでのPKFの限界もはっきりと浮き彫りにしました。死傷者が出る事を恐れて協力しない先進国、そしてほとんど装備のないまま、一切の秩序が壊れた所に投げ出される途上国からの部隊・・・この人質の為に、国際社会は、そして日本は何をするでしょうか。そして結果はどうなるでしょうか。悪い予感がします。
しかし、わずかな報道だけでも、そこで行われている残虐行為を・・・人間が我慢できるのでしょうか。本当に、忘れる事はできるのでしょうか。できなければ身が持たない、と言うのが本音ですが・・・。
とある大都会の駅前KFC(ケンタッキーフライドチキン)、お昼時・・・客席で周囲をぐるっと見回すと、驚いたことに誰一人としてチキンを食べている人がいませんでした。皆ハンバーガー(の類、中身はチキン?)を食べています。
本来フライドチキンが売りなのに、これは驚きました。今更かもしれませんが、今はもうフライドチキンは少なくとも昼食には食べない、ハンバーガーのようなものしか食べないのでしょうか。フライドチキンは食事としての価値は、初めからないですけど・・・もうイメージのような形でのKFCのままでは、存続できないのでしょうか。炭水化物メインの主食として、例えばビスケットやフライドポテト(これは主食というよりつけあわせですが)もあるから、一応食事にはなっているのに・・・栄養的に悪いという点ではバーガーの類も変わらないでしょう。
しかし、バーガーにチキンを1ピースセット・・・しないのは何故でしょう?
沖縄は、本当は誰のものなのでしょうか。
沖縄の人たちのものでしょうか?違います。沖縄人には独立の意志がないですし、独力であの軍事的要衝を守りぬけるだけの軍事力も経済力も政治力もありません。
中国のものでしょうか?明らかに違います。確かに清帝国に朝貢したことがありますが、朝貢は交易の為の形式的なものであり、実効支配とは全く違うものです。政治を始め、全ての国の行為において中国の指示を頼んだことはなく、当時の沖縄の主権は琉球政府と日本の圧力の間にありました。
日本のものでしょうか?それが少なくとも、法的には間違いなく思えます。では、どこまで日本には権利があるのでしょうか?そこがはっきりしません。一応は平等な県としていますが、アメリカと所有権を分け合っているような感じがどこかするのです。
アメリカのものでしょうか?これは僕の感じなのですが、「血であがなわれた地」は・・・侵略を正当化する恐れもありますが、現実にはある程度認めないとならないような気もしています。沖縄は、紛れもなく一時、アメリカの兵士の血と鉄で日本軍の手から奪い取ったものです。そして今に至るまで、沖縄を守り抜いてきたのもアメリカです。それをなぜ返したのか、アメリカの領土としようとしなかったのか疑問があるのですが・・・。まあ、基地と言う実を取っている、ということなのでしょうか。
「血であがなわれた地」、つまり血を流して奪い、そして血を流して守り抜いてきた地の所有権をある程度認める、ということはどうなのでしょうか?これを一切認めないとしますと、例えばアメリカ大陸やオーストラリア大陸を白人が所有している事自体おかしい、と言う事になりかねません。でも無制限に認めると、例えばイラクのクゥエート侵攻も認めることになってしまいます。もちろん、今はイラクはクゥエートを確保できなかったのですから、権利はありませんが。今のパレスチナに対するイスラエルの権利は、もちろんこの論理なら認めることができます。
今、学校で何が教えられ、どんな授業が行われているのか、具体的なことは教職にある者以外ほとんど知りません。最近、色々な教科書を見直してみたのですが、僕の小学校から高校にかけてと内容にしても科目の分け方にしても、あまりの違いにびっくりしました。
もっと、今それがどうなっているのか、知る必要があると思います。十年前の高卒と、今年の高卒とは学んできたことが想像以上に異なっているのですから・・・。
バスジャック事件で、凶器になった包丁は犯行の当日、刃物店で購入された、と報道されました。精神病院から一時帰宅している人が何の苦もなく買えてしまう、包丁に規制の必要はないのでしょうか?
もちろん、全ての精神病患者が犯罪を犯すわけではないです。「一時帰宅している精神病患者」でもたまたま何か刃物が必要で、誰の助けも借りられない状態はありえるでしょうが・・・それでも、コンビニエンスストアのフルーツナイフを含めて、身分証明書の確認などはできないものでしょうか。身分証明書に「現在精神病院に入院しているので刃物その他凶器または自殺手段になる物品の購入は不可」と書き込むのは人権上問題があるでしょうが。
少なくとも、まともな、少なくともジャパンナイフギルドに加入しているナイフ専門店や通販サイト(残念ながら本件の容疑者は何らかの形でサバイバルナイフを入手していたようですが、三流のサバイバルナイフはかなり怪しげな所にも行き渡っているようです)は未成年もしくは18歳未満に、親の許可がなく、しっかりした理由説明がない場合にはナイフを売っていません。ナイフより包丁のほうが犯罪に使われる事は多いのですから、少なくとも同じくらい厳しい目をむけて欲しいものです。
使徒行伝で、パウロがギリシャ・ローマ神話が信じられている領域でキリスト教を布教しているところを思い出して、ふと・・・。
パウロのキリスト教は、もちろんユダヤ教が源泉ですからその徹底的な不寛容を引き継ぎ、ギリシャ・ローマ神話の神々を根こそぎ否定し、あるいは悪霊と決め付けました。でも、例えばこのような方法は思い付かなかったのでしょうか?
ギリシャ神話には、それ自体に自分を破壊する伏線があります。それは、ウラヌス〜クロノス〜ゼウスと、主神が息子による父殺しの形で交代している、ということです。
ゼウスは一応安泰ですが、それも永遠とは思えない構造があります。例えばアテナ誕生の神話で、アテナの母とゼウスが子供を作ったら、その子供がゼウスを倒すと予言され、それを恐れたゼウスは妊娠したとたんアテナの母を呑み込み、ゼウスの頭からアテナが飛び出してきた、ということです。
そして、海の女神テティスについて、その子供は父親を超えた存在である、とされています。だから、ゼウスがテティスに子供を産ませれば、その子供はゼウス以上の存在になり、ゼウスを王座から追うのです。それを恐れたゼウスはテティスにだけは手を出さなかった、ということですが、それを突けば・・・!
イエスはゼウスとテティスの息子であり、同時にギリシャ神話でさえ伝えていなかった、全てを生み出した混沌そのものの創造者で本当の始まりの神の子でもある存在とし、その誕生を恐れたゼウスによって追われ、赤子の姿を借りて処女マリアの胎に隠れてそこからイエスとして産まれ、成長して一時は皇帝を通じたゼウスの間接的な命令で処刑されたが、冥府の神ハデスを打ち倒して死からよみがえり、ギリシャ神話の神々を従えて天地全ての絶対的な支配を確立した、とすればさほどの矛盾もなくギリシャ神話の神々より更に偉大な存在としてイエスを宣伝する事ができたと思いますけど・・・。
ひどいバスジャック事件でした。あれはどう考えても防ぎようがないです。もし乗客の中に、訓練されて武装されている人間がい・・・てもまず人質が出た以上、どうしようもなかったでしょう。やはり問題は、精神科に入院、一時帰宅中の事件、と言うのが本当であれば精神医学の診断力が不足していた、という事なのでしょう。なんとか、将来の犯罪や幼児虐待などを予防する方向に精神医学が発展して欲しいものですが。
犯人確保の際に使われたスタングレネード(特殊閃光手榴弾、殺傷力が低く、マグネシウム粉末を利用した強烈な光と大音響、爆風によるショックで犯人を数秒から数十秒間混乱、麻痺させ、その間に制圧する)の威力を、テレビを通じてですが実際に見て驚嘆しました。それで思ったのですが、あれは民間人に、普通に売ってはいけないのでしょうか?
少なくとも日本では売られていませんから禁止なのでしょうが、なぜなのでしょうか。護身具としては最高ではないでしょうか。
あれを悪用する事は不可能に近いと思います。例えば被害者を麻痺させて誘拐などをする、としても大音響を伴いますから、確実に周囲の注目を浴びる事になりますし、警察の目も引くでしょう。犯人としては使えないはずです。反面、あらゆる犯罪の被害者が、ピンを抜いて投げる余裕さえあれば犯人をしばらく動けなくし、同時にたとえ河原や夜の校庭のように人家から隔絶した場所や屋内でも、確実に助けを呼ぶことが可能です。あ、いたずらで何もないのに使う、と言う事がありますか・・・でも、それも犯人はほぼ間違いなく捕まる(本人も、初めて使用したら驚いてしばらく動けないでしょうし)のですから、それほどの大事ではないと思います。確かに高熱を発し、火災ややけどの心配もありますから危険かもしれませんが、それは購入時にある程度の研修と登録を義務づければいい事です。
特に女性や子供の多くが、スタングレネードに加えて、ボタン一つで画像、音声、GPSを通じて位置を衛星携帯回線を通じてセンターに送り、センターが判断して適宜警察に通報するシステムを持っていれば、少なくとも戸外での犯罪は非常に難しくなると思います。
今後、コンピューターの記憶媒体はどうなっていくのでしょうか。今のコンピューターは大体、本体のメモリ、保存でき、読み出しも書き込みもできるハードディスク、外から情報を入れるのに使うため、容易に携帯できる読み出し専用のCD-ROMと書き込みも読み出しも可能なフロッピーディスクが基本装備、それにある程度以上レベルを上げたらデジカメなどとつなげるためのメモリスティックや大きなファイルを書き込み、バックアップするのに使うCD‐Rか光磁気ディスク、ということになるようです。
では、それらが根本的に技術革新される可能性はあるのでしょうか?上記の技術は、レーザーと磁気を中心にした技術です。でも、例えば光の波長の限界を超えた電子線を用いたり、磁気などを何らかの方法で現在のような平面でなく、より複雑で表面積の大きい立体の表面に記録、読み出しできるようにするとか、他にも今の枠を超えた手段は考えられないのでしょうか?それらをコンパクトな形にする事は不可能なのでしょうか。
東京近郊に、空港に適した場所はあるのでしょうか。成田のような厄介なところではなく、別にどこか考えてほしかったものです。
メガフロート技術を用いて東京湾上に大規模な空港を作るのが一番でしょうか。または、地下に大部分を作り、出入り口に当る部分だけを地上に露出させて・・・と言うのは不可能でしょうか。
グアテマラで、観光客が「子供をさらいに来た」と扇動された人たちに殺害される、と言う悲劇が起きました。危険地帯に警戒感なしに行った、と言うのもミスだったと思いますが、あまりにも現地の情報不足がひどいのに驚いています。特に旅行代理店は、現地に不穏なムードが起きている事にも気付いていなかったようです。旅行代理店に任せ、自分で情報を集めてから行かない事の危険が浮き彫りになると共に、旅行代理店の最大の義務は客の安全を守る事だ、という、当たり前の事を意識してしまいます。それが忘れられていた・・・。
そして、現地では子供を「臓器売買」のために誘拐している、と言う噂(ただの流言飛語かもしれません、しっかりした情報はありません)がある・・・背筋が寒くなります。
廃棄物処理で、一部を除いてリサイクルはかえって自然に対する害が大きいケースも多いという話もあります。リサイクルにこだわることなく、できるだけ自然に負担をかけない廃棄物処理を考えてみましょう。
まず「確実に無害化する」ためには、重金属や放射性廃棄物を含めて最も優れた方法は超深地下の高温高圧で処理、マグマ(できればマントル)に戻してしまう手段です。ただ、極めて多い廃棄物である「排水」にこの方法は適しているのでしょうか?
排水の処理ですが、まず有機物(要は油など)で汚染されている生活廃水を処理する一番いい方法は沼地、干潟のような豊かな生態系を持つ広い土地を使って処理することです。でもややこしいのが、現代の排水は生態系が処理しきれない重金属のような厄介な無機物や自然分解できない化学物質を含む事が多い点ですが・・・それらはできるだけ濃縮し、マントルに流し込むしかないのでしょうか・・・。それに、今の日本ではとても、大量に出ている生活廃水を処理できるだけの広大な平地や海岸は確保できないですね。