枕元の計算用紙
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他の季節の風を召喚できたら・・・。今夏の風を召喚できれば、この雪を一日で消し去れるでしょうし、逆に真夏の東京ビッグサイト駐車場に真冬の風を一瞬でも召喚できれば・・・。
もし、自分の子供に「帰り道でうんちがしたくなったけど、公衆便所は近くになくて、家まで耐えられそうにない」ときには「近くの家でトイレを借りる」「もらす」「公園などで」のどれをとるべきと教えるのがいいでしょうか。
飛行機や戦闘機の操縦を疑似体験するゲームは、もう一つのジャンルと言っていいほど多くあります。それらは大抵リアリティの高さを売りにしています。
でも、もしとことん現実に近いものがあったら?現実の戦闘攻撃機の訓練に使われるシュミレーターをそのまま使って、湾岸戦争やコソボのあるミッションを忠実に仮装体験させたら・・・多分、つまらないと思います。空中戦なんてめったにないでしょうし、ただ目的地に正確に行き、指示される通りにマークを合わせ続けて爆弾を投下、命中を確認して帰るだけなのですから。むしろ、発進時や着陸時の事故による損失の方が大きいでしょうが、その高度な計算や制御を素人が簡単にできるはずもないです。
「自分だけは大丈夫」特に日本人に多い、この心理の恐ろしさときたらないです。自分が今日交通事故死することはないと思っている、次の検診で手後れのガンが発見されることはないと思っている、危険な性交渉をしても妊娠やHIVは自分をよけて通ると思っている・・・
特に一家の大黒柱には、常に最悪の事態を想定して欲しいものですね。四十代の大黒柱で、正式な遺言状を作ってしっかりした保険に入っている人は・・・少数派でしょう。
昔深夜で放映されたローカルなバラエティー番組やドラマをまた見たい、と思ってもそれは不可能です。でも、テレビ局にはテープはあるはずで、それを有料でダビングして送ることは原理的には可能なはずです。
そして、将来ネットの情報送信能力が桁外れに増大、さらにビデオにもハードディスクや書き込み可能なDVDなどが標準装備されれば、「**TVで1988年9月ごろ木曜日午後5時〜6時に放映された少年向けバラエティーと、木曜深夜1時ごろ放映された「16」「ホラー学園πr」と言うドラマがまた見たい」というようなリクエストに、カード番号で料金を振り込めば直接ネットを通じてコピーができないよう圧縮された番組を利用希望者のパソコンと一体化したビデオに送る、というのが可能になれば便利なような。
人間は、生活レベルをどこまで落すことに耐えられるでしょうか。
地球環境が持たないから今後自動車もテレビもエアコンも使うな、と言われて、先進国の人間にはいと言えるでしょうか?絶対に無理でしょう。
このことを無視して環境問題の解決を図っても、多分失敗します。人間の歴史は結局、人間に完全に制御できる代物ではないのです。
重力が3G、空気抵抗が水中並みのトレーニングルームがあれば凄まじい効果でしょう。普通に生活するだけでも・・・死ぬかもしれませんが、耐えられれば短期間で鋼の肉体になるでしょうね。
そろそろ、男がチョコレートを買うことが難しい季節になってきました。この季節、チョコレートが好きでたまらない、または中毒状態の男の子はどうすればいいのでしょう。
あ、なら・・・この時期限定の、出入りが目立たない男専門のチョコレート店があったら結構いいかも。
同人作家と、ファンから友達に昇格できる人は現実にいるのでしょうか。まして普通の作家と。僕には不可能に思えます。ストーカー扱いされないよう、マナーに注意し、分をわきまえることは大切ですが。
フィルピンの大統領交代劇、それ自体は人民の力を見事に示してくれました。
しかし・・・マルコス大統領の退陣以来、余りにも長い年月が、結局は失望で終わっています。フィリピンの人たちは、今度こそと希望を持っているのでしょうか?それとも、やはり腐敗=縁故主義と貧困はフィリピンの、決して克服することのできない本質なのでしょうか。
武人の道徳は、現代日本の、少なくとも教育体系では根こそぎ否定されています。
本来、世界で最も高かった武士道を持っていた日本・・・でも、大戦でその武士道が根こそぎ否定されてしまった・・・どうすれば取り戻せるのか、再検証できるのか。
そして忘れがちですが、本当に完全に根絶されたのでしょうか。警察や自衛隊などの、閉鎖的な公的公安団体野中では、形を買えて生き残っているということはないのでしょうか。そして、それは健全な武士道なのでしょうか。
どうすればおいしいものを作れるか、というのは色々考えられてきました。でも、逆にどうすればまずいものを作れるかは、少なくとも僕はほとんど知りません。
「KANON」という、僕は小説でしか知らないのですがゲームの中で、「謎ジャム」というとてつもなくまずいらしい、材料製法一切謎なジャムがありますが、それをもし現実に商品化するなら・・・見た目は普通のジャム、ただしロゴは大きく「謎ジャム」の文字とそれを作っている秋子さんのイラスト、そして「無害です」と言う注意書き・・・ファンの多さから考えて多分売れると思いますが、害なしに食べられてしかもとことんまずい・・・何を使えばいいのでしょう。
コンゴ大統領暗殺、今更別に驚くことではないですが。ここからアフリカ大戦ともいわれる地域紛争がどう展開するか、日本人には人事のようですが・・・ハイテクに欠かせない、何種類かの希土類元素はそこからしか採れないのです。
まあ、なるようにしかならないでしょう。どうしようもないですし。
銭湯で外国人お断りが問題になっているそうです。それも国籍には関係なく肌の色・・・外見、人種のみで差別しているそうで、それが問題になるのも分かります。
ただ、本当に問題なのは銭湯ではないでしょう。その銭湯が説得されたり、あるいは法的強制力で外国人を受け入れても、今度は日本人の客が来なくなるのです。つまり、そのように人を差別する住民=客が悪いのであって、銭湯はただ多数の客の要求に応えているだけ。厳密に市場主義を取るなら、これはどうしようもないです。差別をしない銭湯は淘汰されるのですから。なら、差別をする住民が多い地方には銭湯自体あってはならないということに・・・難しいです。まさか、その地域の住民全員、生理的な差別感さえ抱かないよう洗脳するわけにもいかないですし。啓蒙することはできますが。
テレビを見ている男の本音は美女の裸や下着が見たいし、人間はだれしも人がいじめられているのを見るのは楽しいものです。
だから、俗悪な番組が消えることはないと思うのですが・・・では、どうすればいいのでしょう。それに、俗悪な番組がこの世からなければ人間が高尚になるか、といえば、それも違う気がします。高尚なものは、市場原理で破れるのですから。一日中教訓ものや教会や寺院の中継、世界偉人伝、科学や歴史、地理など学問を平易に解説した番組、クラシック音楽やオペラ、歌舞伎などいいと認められる芸術の中継・・・その他高尚なものしかテレビでは流さないこと、と規制しても、テレビが衰退して俗悪ビデオやネットが繁盛するだけでしょうからね。共産国家じゃない限り。
人が人を裁くことの傲慢さ・・・事実認定は人間の組織が調べたことが事実としてしまうことですし、まして情状は・・・被告が反省しているかどうか、つまりその魂そのものを判定してしまうのです。考えてみるとぞっとしますが、陪審制のない日本ではその恐ろしさを感じることもできないのです。
机と一体化したパソコンがあると便利でしょうね。もちろん、グレードアップが単なる部品取替えの感覚で好きにできる。
キーボード、マウス、ディスプレイ、スピーカー、プリンター、フロッピーディスクドライブなどは今後十年はそんなに進化しないと思います。新しく手軽で大容量の光ディスクドライブがフロッピーに変わって標準ディスケットになる可能性はありますが・・・。なら、液晶型ディスプレイでよければ机の奥板がそのままディスプレイとなり、ブラウン管式にしたければ右手奥の側に設置、マウスとしては足元にあって足の指で使えるトラックポイント型パッドと机と一体化したジョイボール型マウスがあり、机の前の方を少しいじれば備え付けのキーボードが、引き出しに当たる部分の一つに各種ドライブやプリンター&スキャナー、そして邪魔にならない部分に本体が入っていて、それも簡単に取り替えたりハードディスクなどを増設できる・・・。もちろん、学習&仕事机としても十分使える機能を持ったものがあれば、かなり便利だと思います。
石原慎太郎氏や小林よしのり氏など「公」を意識する流れと、朝日新聞などそれを危険視し、徹底して反対する流れが対立しています。
その中で感じる問題が、日本ではかなり極端になっている個人主義の理念と、現実の組織における封建的な「公」感覚の二重基準です。
日本人には、封建的でない「公」は所詮持てないのではないか、特に国家がその頂点に立つと、必然的に戦前の全体軍国主義社会になってしまう、その不安感も分かります。でも、人類そのものを「公」とし、国は無視する姿勢にも賛成できません。国は権力、軍事組織であるのみならず、日本の場合には地理的、文化、言語的な意味もあるのですから。それを見失っては国際人とは言えないでしょう。
悪質な飲酒運転で子供を失い、判例以上の重罰を求めた控訴が棄却されました。報道は被害者側の立場に立って、司法の古さを強く批判していますが、逆にもし本当に重い刑罰を科したら・・・法治国家ではないですよ。単に、今までは過失扱いで軽かったし、法改正も間に合わなかったけれど腹が立つから重罰では、罪刑法定主義も崩れてしまいます。
ただ、司法の立場が単純な正義感と矛盾することがとても多いのは事実です。硬直的で企業、政府よりの判決もそうですが、今回のように・・・法治の原則自体が正義感と矛盾した場合にはどうすればいいのでしょう。私刑しかないのでしょうか・・・。
親が子供を殺す権利は、いつ無くなったのでしょう。少なくとも明治維新までは、すべての階級で親が子供に切腹を命じることも、また成敗することも懲戒権の範囲内で、当然のことだったはずです。明治刑法ではどうだったのでしょうか?
外道としか言いようのない人間は、僕はいるとしか考えようがありません。だとしたら・・・それもまた、親の責任とするのは酷すぎるでしょうか。親になる責任とはそこまであるんだ、という感じも、逆にそれは酷だ、子がどんな遺伝子や人格を持って産まれようと、それは親とは関係ない偶然でしかなく、責任はあくまで本人にある、という感じも両方あるのです。
子供が連続殺人犯だった親は、その子を殺して自分も自殺するのが義務でしょうか?それとも、親は親の、子は子の人生を勝手に生きていいのでしょうか。
「軍隊は国民を守らない」これが、特に護憲派の合い言葉です。第二次世界大戦末期、南洋や沖縄では住民ぐるみの玉砕を強制し、満州では移民を見捨てて踏み潰して逃げ去った、その体験から来る言葉ですが・・・でも、僕には軍隊を捨てれば平和になるとも思えません。
どうすれば、国民を守る軍隊にすることができるのか・・・
ローマがカルタゴを滅ぼした時、都市を破壊、住民を殺戮、奴隷化したのみならず、周囲の土地に塩を撒いたと伝えられています。考えてみますとこれは、世界最初の意図的な環境テロでは?相手の土地そのものを半永久的に破壊、そこに人が住めないようにするのですから。
連想してぞっとしたのが、これを現代技術でやったら・・・もし、塩の代わりに大量の放射性廃棄物を撒いたら。その土地には何万年も人は住めません。民族憎悪が関わる戦争や内戦で、実際に使われそうで怖いです。また、核テロと言う言葉で核兵器を主に考えていましたが、放射性廃棄物も十分兵器になりますね。
構造改革を断行せず、先送りをしていると財政破綻などで日本経済は破滅する。それを避けるため、徹底的な改革をせよ。これがマスコミの一致した見解です。
しかし、これは本当に正しいのでしょうか。もしそうなら、なぜそれができないのか。前例、天下りなどのしがらみのせいとされていますが、もしかして・・・そうではなく、担当者の見通しが違う、ということはないのでしょうか?十年前ならともかく、今ショック療法的な構造改革をしたら世界恐慌を起こしかねない。ショック療法が必ずしもいいわけではなく、現にロシアはショック療法で破滅的な打撃を受けている。日本発世界恐慌のA級戦犯の汚名よりは、日本の緩慢な衰退の責任者のほうがましだ。こんな可能性はないのでしょうか。
数秘術を使って数学の練習問題(素因数分解など)をさせたり、占星術の抗議と見せて天文学を学ばせたりは不可能でしょうか?
正直は美徳ではなく、自分が楽になることしか考えない醜さであるという見方もあります。
それとは微妙に違いますが、今までの美徳であった真面目さ、誠実さ、従順さなど・・・それら全体が今、問われているような気がします。オウム裁判の中で、被告たちの真面目さが強調されていますし、今までのようにひたすら真面目な人間はリストラで切り捨てられています。
マスコミでは、銃規制などの問題では規制派の意見しか目にできません。NRAの見解などは、ある意味プロトタイプとして、ごく短い抜粋から「まだそんな時代遅れで邪悪なことを言っているのか」と読者に印象づける扱いでしかなく、その意見を公平に取り上げることはないに等しいです。
豊臣秀吉が織田家に使えてすぐの足軽だった頃、何度か従軍していたはず・・・生き延びて、そしてあれだけの出世をしていたということは、戦士としてもそれなりの力があったのではないでしょうか。太閤記などでは、とんちに近い知恵でのし上がる記述しかありませんが、最下層の戦士としての彼がどうだったのか、それも見てみたいです。
凧上げ、コマまわし、百人一首などの正月の遊びは、正月でなくても十分楽しめると思うのは僕だけでしょうか。あ、もしかしたら今はそんな遊びは廃れていて、やはりテレビゲームが中心なのでしょうか?
天国と地獄は、もしかすると現実の人間の状態ではないでしょうか。よくある見方ですが、スゥエーデンボルグの「天界と地獄」を思い出すと、強くそんな気がします。最下層の地獄の描写にある、真の闇、絶対の孤独の中、自分を傷つけ食らうことによって自分を確認するしかない、そんな行き着くところまで行った自己愛。これは引きこもり状態での過食症、リストカットなどを深い象徴で描写している気がするのです。
隆慶一郎氏の歴史小説に、明治維新後の作品がなかったことがなんとなく残念です。「最後のサンカ」「売春防止法〜吉原の最後〜」が一体どのようなものになるのか・・・どんなに無惨な、それだけに美しい滅びか、想像しただけでドキドキします。
21世紀が無事に来ました。そのことを、ラッセルやアインシュタインなど核戦争を心配した人たちは天国でどう思っているのでしょう。
そして、22世紀はどうすれば無事に来るのか・・・。