枕元の計算用紙
1999年7月 8月 9月 10月 11月 12月
2000年1月 2月
3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
2001年1月 2月
3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
2002年1月 2月
3月 4日 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
2003年1月 2月
3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
2004年1月 2月
3月 4月 5月 6月
2004年7月
1日 2日 3日 4日 5日 6日 7日 8日 9日 10日 11日 12日 13日 14日 15日 16日 17日 18日 19日 20日 21日 22日 23日 24日 25日 26日 27日 28日 29日 30日 31日
やはりオウム事件は闇から闇で終わるようですね。
まあそうなると思っていましたが…
警察については勇み足であっても何もしないよりましなのか、それともポーズだけなのか、批判すればいいのか賞賛すればいいのかわかりません。
もうどうせぐるなんだろうから好きにしてろ、とシニシズムに走りそうです。
日本産のヒジキが有機砒素を含むから食べないほうがよい、とイギリスやカナダで勧告が出たそうです。
健康の切り札といえる素晴らしい食材なので、とても残念なことです。
僕は平気で食べる気でいます。
あれが危険だこれが…というのを全部真に受けていたら、何も食べられません。
タスマニア島にでも行って自給自足するほかないでしょう。
それらの汚染はある意味どうしようもない以上、多分何万年という単位でつきあっていくほかないでしょうね。
公共事業、農業補助金に依存している地方は、今後一体どうすればいいのでしょう。
公共事業や補助金を減らせば、生活していけず自殺するか都市に出るほかありません。
これまでは地方がそのように衰退しないよう、公共事業で地方に金をばら撒いてきました。
しかし、それでも大きな流れとして地方は衰退していますし、今はそのような無駄な公共事業はやめろ、財政が破綻するという声が強くなっています。
公共事業や補助金では競争力がないから、例えば農業や観光で競争力が出るよう鍛え、いいやり方を指導したらどうなるでしょうか?
間違いなくその場合、ものすごい弱肉強食がおきるでしょう。
結局中央の大資本による大規模経営が中心になり、地方住民の生活は不安定で過酷になるでしょう。
では無駄な公共事業をやめ、代わりに建設から福祉に移行するように職業訓練を…というのは?
それも無理があります。職業訓練校で学ぶことは、特に高年齢層だと事実上無意味です。企業は経験者しか採用しません。
そして福祉の雇用も地方でも比較的大きな都市にしかないでしょう。すなわち田舎の老人は家で朽ちるか都市に出て福祉にすがるしかないということです。
ならばこれまでどおり、公共事業と補助金をばら撒くのがいいのでしょうか?でも、もう財政が持たないのは事実ですし、そこまでして地方を維持するのにどんな意味があるのでしょう。公共事業に依存しているというのは、何も生み出せずただ飼われているのと変わらない気がするのです…まあ大都会にも飼われているに等しい人生を送る人は多くいますが。
伝統や自然そのものを観光資源に、というのは結局大半が破綻しています。所詮ただの里山は東京ディズニーランドに、地酒地蕎麦はファストフードやイタメシに…巨視的にはかなわないのです。
在日韓国朝鮮人の立場から考えてみると、主権国家や領土というもの自体がおかしな概念です。
ある「地」を一つの民族だけが排他的に占有し、国を作っている…自分たちには他に行く場はないのに、いつまでも日本国民という本来敵である他者が専有している土地にいさせてもらうほかないのですから。
なぜこの列島は日本民族のものなのだ、誰が決めたんだと文句を言いたいでしょう。
そこで民族が生まれ育ったからといっても、アメリカはネイティブから土地を奪いつくしたではないか、そして植民地時代は日本民族もそうしようとしたではないかと…
ただ、その調子で言うと…クルド人やかつてのユダヤ人のように、正真正銘地球のどこにも居場所がない人もいます。
彼らには生まれつき、先祖代々国土を持ち、それが国民国家として主権を主張している民族と同様の安心感は得られないという不公平感があるでしょう。
それでイスラエルが認められていいのか、といえば…現実問題として認めるほかありません。
…かといって国民、国家、主権、領土という概念全体を否定できはしない、と考えるのは僕が日本人だからなのでしょうか。
日本では塩漬けの肉など見ることもないです。
でも、スーパーの冷蔵された肉も結局は発色剤や酸化防止剤がかかっているものなのですから、どうせならきっちり塩蔵した上でできるだけ冷蔵してあるほうが新鮮なのでは?
または適度に熟成されたら即冷凍し、冷凍したまま売るのを標準にするか。
買う側が肉の鮮度を赤さでしか判別できない(赤い肉を選んでしまう)のが最大の問題なのですが。
特に一人用アパートなどでは、風呂の面積が非常に大きな問題になります。
ならば浴槽を地下にしてへりを床と同じ高さにし、下ろせばその上に乗れて洗い場になる丈夫なふたを壁につくりつければ風呂場の面積を大きく節約できるのでは?
もちろんふたの上で体を洗っているとき、そして湯に入ろうとふたをたたむとき汚れた水は絶対浴槽に入らないようふたの傾斜や浴槽の溝などいろいろ工夫して。
それと以前考えたカプセルホテル式ベッド、机、AVルーム+上段収納を組み合わせれば、一人暮らしに必要な床面積を相当減らせるでしょうね。
宣伝を見ると、速く書くのについていけるペンがよりよいとされます。
でも、実際には字は適度な筆圧でゆっくり丁寧に書いたほうがきれいです。
ならば、筆圧が強すぎたり速すぎたりするとかけないペンがあれば、それはそれで字の矯正にはいいのではないでしょうか。
人が一人ただ一家を構えるだけで、住民税、電気ガス水道電話などの基本料にNHK受信料、自治体によってはごみ処理料、払っていない人も多いですが年金や保険料などがかかります。
それらは払う先が国か電気やガスなどの会社か…などの違いはありますが、事実上一家ごとに最低額を払っていて、残りが可処分所得と考えていいでしょう。
もちろん家賃か住宅ローンと食費も必ず最低額はかかりますが、それは幅があるのでどこまでが誰もが払っている最低限かはわかりにくいです。
その最低限費用は、現在は収入が少ない人も多い人も同様に払っています。
収入が少ない人は少ない収入のほとんどがそれに費やされ、逆に収入が多ければ多くの可処分所得が残ります。
では逆に、それらを収入に関わらず誰もが払うのではなく、収入の多い人が払うようにしたらどうなるでしょう。
そうすれば収入が少ない人も、少ないなりの収入がみな可処分所得になります。
それを消費に使えば景気がよくなり、収入の多い人の収入も増えた負担以上に増える…ということはないでしょうか?
まあ共産主義はうまくいかない、という一言で終わりでしょうが。
一体なぜ、全ての物理定数は実数なのでしょう。
複素数は量子力学の計算には必須です。
そして現実と関係ないと考えるには実数のみの数学に比べ複素数論は美しすぎます。
おそらく物理学は本来複素数の世界であり、我々が測定しているのはその実部に過ぎないのでしょう。
アメリカは形のない相手に対する憎悪にはまっていないでしょうか。
今後の明白なビジョンを持っているでしょうか。
それが思い通りに行かなくなったときの、撤退戦術をちゃんと持っているでしょうか。
ただ、アメリカを責めた所で…もしアメリカが中東から手を引いたら、もっと想像もできないほど悲惨なことになるでしょうが。
海底に沈み、周囲の泥を集めて密封して浮上し、海面に達したら採取してあった海底の泥水を海面に流して太陽光発電でエネルギーを貯め、また沈む…それをひたすら繰り返し、時々自己複製するナノマシンがあったらどうなるでしょう。
海に流れ込む窒素、リンをはじめ栄養素は、日光の通る海面では全て利用されきれず多くは海底に沈みます。
堆積する養分も多いですが、深海底を流れる海流にも多く含まれ、地形の関係でそれが海面に出るとその栄養素、空気の酸素、日光と条件がそろって生物が大量発生し、豊かな漁場を形成します。
その深海底の栄養素を引き上げる仕事を、地形に頼ることなく一つ一つは小さいですが無数に増殖し、広範囲を覆い尽くす自己増殖性ナノマシンがやるとしたら…海全体が豊かな漁場になるということです。
ではそれが、どのような反動をもたらすでしょう…夢のようであると同時に、考えただけでも怖いです。
はっきりいえるのは、生物量の大増殖は空気中の二酸化炭素を大量に消費し、しかもその相当部分は石灰質の生物殻として深海に、半永久的にたまってしまうことです。
現在二酸化炭素の過剰放出による温暖化が問題になっていますが、そんなもの打ち消すどころか…逆に氷河期になりかねません。
しかも最低でもそれぐらいの反動はある、であって海面近くの海水の成分が変わって密度が変化し…などがそれ以上の災厄をもたらすことも考えられます。
ただ、技術の進歩で百億の人口を食べさせようとしたら、深海の底や海流にたまった栄養を日光が当たる、現在漁場でない海面にまんべんなく上げるのは必須の技術の一つでしょう。
幸せの条件として、「その状態が何百年、何千年(不老不死で)続いてもずっと楽しい」というのはどうでしょう。
では例えば、男性にとってもっとも単純な欲望のイメージ…不老不死、食べても太らない美酒美食、そして豪奢な部屋で無数の美女のハーレムが永遠に続くとしたら?
百年持つでしょうか…想像以上の短期間で倦怠に耐えられなくなり、出られないとわかれば発狂するでしょう。
それに狩猟、漁、登山など各種スポーツを加えてメリハリをつければ耐えられる期間は相当長くなると思いますが、永遠は厳しいでしょうね。
では、どんな状態が永遠に続いても耐えられるでしょう。
僕は、飲食などの心配がなく全ての本、マンガ、あと宝塚やアニメのDVDや音楽CD(今のところは宝塚と一部アニメ、ある程度のクラシックで十分です)が詰まった大図書館に…今現在ある全世界の本全部を含めれば、全部何度も読み終わり、学びつくすまでの何千年か耐えられると思います。
新刊新作がどんどん来るなら…永遠に耐えられるかどうかはわからないですが…。
新作コンピューターゲームと映画と音楽がどんどん積みあがっていく世界なら、相当多くの人が永久とは行かなくても何万年も耐えられるでしょう。
また、おそらくマザー・テレサや正宗はその仕事を永遠に続けても悦びが減ることすらないでしょう。
それこそが真の幸せで、そうでないいつか飽きるものは全て幻なのでしょうか。
そして、その幸せにいる人はどれぐらいいるのでしょう。その幸せに至れる仕事はどういうものでしょう。
でも、逆にぞっとするのは…もしかしたら快楽殺人鬼にとって、拷問虐殺は永遠に楽しめる悦びかもしれません。
「よき世界」では、内心や表現、言論、信仰など精神の自由は最優先ですから、人の考えの多様性はもちろん認められなければなりません。
でも、その信仰の一番大きいもの、一神教は本質的に不寛容です。
すなわち「よき世界」と一神教は両立できないのでは?
また、「よき世界」が実現するためには、上の誰もが精神の自由を持つこと、宗教的寛容について誰もが合意しなければなりません。
他にも誰もが合意しなければならないことは多いでしょう。
そのこと自体が、内心の自由を侵すことはないのでしょうか?
今の日本は、そして世界は激しい不安の中にあります。
特にブッシュ、小泉政権など経済における自由主義改革は階層分化をもたらしているとされています。
それによって生まれる不安で不安定、絶望にすら至っている貧困層は本来、宗教にとって大きなチャンスのはずです。
実際はどうなのでしょう。
アメリカでは逆説的ですがキリスト教への信仰が深まり、それは保守革命の重要な要素としてブッシュ政権を支えているといわれています。
日本ではどうでしょうか?日本においては保守層と一体化した国民宗教は…神道といわれそうですが、神道にはそういう宗教としての力はありません。
ではプチナショナリズムといわれる国家主義が擬似宗教の役割を担っているのでしょうか?
そして、キリスト教を始めとする既成宗教、また新宗教は今どうしているのでしょう。
投票先がなく絶望している新しい貧困層に積極的なアプローチをしているのでしょうか。
それとも、やはり地下鉄サリン事件以来日本はどうしようもない宗教アレルギーに陥っているのでしょうか?
また、貧困層の増加と絶望は本来なら左翼にとってもチャンスのはずですが、やはり共産圏が崩壊した今左翼の復活は無理なのでしょうか。
青山ブックセンターが潰れたことには驚きました。
小さい書店が軒並み潰れているのは肌で知っていますが、負けがあれば勝ちもあるはずなのに、本来その勝ち組のはずの大規模チェーン店が潰れるとは…
やはりこれは一つしか生き延びられないということなのでしょうか。
それとも、最終的にはみんなまとめて滅びる運命なのでしょうか。
単に失敗しただけで、代わりの書店はいくらでもあるのかもしれません。
いや、もっと単純な話でしょう。
単に本が売れないだけ。
何よりも恐ろしいですが。
戦闘用ロボットをゼロから設計するとしましょう。
必要な要素は?
まず火力と防御力です。
でも、それを本当に活かすのは機動力です。できれば重いものを運ぶことができればそれにこしたことはありません。
大量生産、メンテナンスが容易であることも大切です。人間の軍医が人間を治療するように、戦闘ロボット自体が自分の同型機などを修理できたらより有効でしょう。
そしてガンダム世界のモビルスーツ、その代表であるザクの思想にあるように、戦闘だけでなく土木工事にも使うことができればそれにこしたことはありません。
人間の場合は、古代では歩兵と騎兵に分かれました。海戦も基本的に接近戦でした。
歩兵はコストが安いのはもちろん悪路や乱戦に強く、土木工事も得意で集団になったときの防御、飛び道具の運用に力を発揮します。
後に砲兵という、重い設備を運搬して間合いが長い武器が加わりましたが、投石機など攻城兵器としては昔からありました。それらはエンジンがなかった時代は歩兵の速度で行動しましたし、常に歩兵の支援を必要とします。
火砲は戦艦、要塞など大規模建造物との相性もよかったです。それらは航空機などによって消えましたが。
騎兵は機動力が高く、重装備によって高い突破力もありますが、堀と柵を飛び道具で守り、またがっちり槍ぶすまを固められると歩兵に勝てません。モンゴル騎兵を例外として歩兵の支援を必要とします。
後に戦車になってもその点は変わりません。
戦闘爆撃機および潜水艦という三次元戦闘システムは古代の戦場には似たものが存在しない概念です。
デザイン自体ですが、必要なものは?
上から見れば、移動手段(車輪、キャタピラ、脚、翼など)、エンジン+コンピューター、センサーや通信システム、装甲、武器、そして作業手段(手)でしょうか。人間にはないですが、連結という考え方もあるかもしれません。
それらを人間というデザインにこだわらず、昆虫類を含めあらゆる陸上生物を考えたらどうなるでしょう。
蟻や蜂は道具こそ使えませんが、機動、運搬、戦闘、建築を高度にこなします。道具を必要としないと言っていいのかもしれません、生来必要とする道具は持っていますから。
今イスラム圏にとって、国はどれほど重要な存在でしょう。
もし事実上イスラム圏住民の総意でイスラム圏の統一が果たされてしまったら、世界はどうなるでしょう。
もちろんアラブ同士の戦争のほうがアラブとイスラエルとの戦争より多い、というほど互いの争いも多いです。
また民族や言語も、もちろんコーランを読むアラビア語という共通点はありますがかなり異なります。
何よりイランはシーア派、他はスンニ派というどうしようもない違いもあります。
ただ、国という中ぐらいの単位ではなく、民族及び部族、さらにという小さく固いものを、まず宗派という大枠、さらにイスラムという巨大で一体感のある枠でかこってしまえば…
最近進んでいる性教育について右側から強い異論があります。
では、この膨大な情報が子供の世界に飛び交っている現状で、どうすればいいのでしょう。
性教育を積極的に進めている側の答えは危険なまでに誤った性知識に触れる前に正しく教えるほかはない、というものです。
それに対する反対としては、理解力が低く幼いうちから性について露骨に、学校という公的な場で教えることは人格に深くかかわる性的な感覚が麻痺し、魂が破壊されるというものがあります。
ただし、右側からの性教育反対論は、積極的な性教育は誤ったジェンダー思想に基づいて家族、社会を破壊するために行われているという指摘がむしろ主です。
では、青少年はポルノを見ることができないよう、例えば堂々とコンビニで売られ、誰でも立ち読みできるエロ本を封じる東京都の青少年健全育成条例のようなゾーニング、そして学校で婚前交渉を基本的に否定する純潔教育を行う昔の姿勢が正しいでしょうか?
でも、もうパンドラの箱は空いています。大量の性情報が巷に流れています。
制服の中高生が平気で白昼堂々と酒を飲み、タバコをすっている現状を見ると、ゾーニングによる保護は表層的なものに終わる可能性が高いです。
コンビニのエロ本にシールや紐がかかっていれば、それを切るか万引きするか年齢を偽って買えばいいのです。
そのような形で従来通り性情報に触れ続ける悪い子は、全く無知なまま…おそらく大人専門となることでより過激化した性情報を浴び続け、実行し、周囲に伝えて再生産するでしょう。
そして良い子達も、常に悪への誘惑にさらされています。無事に成長できるのは幸運にすぎません。そして、生まれつきよほど魂の質が高くない限り、悪を知らない者は悪に本当に抵抗することはできないのです。
では大人も含めて浄化し、日本からポルノの存在自体をなくしましょうか。カルヴァンのジュネーブ、ヴィクトリア朝イギリスのように性自体をタブーにしますか?
それ自体非常に危険なことですし、その膨大なポルノ(と判断されかねない普通のマンガも含みます!)がどれほど巨大な産業であり、また特にマンガなどは玉石混交ながら多くの名作もあるかを考えると、それを消すのはまさしく焚書坑儒であり、経済的にも自殺行為です。
それは、そこに至る論理がどれほど正しくとも絶対に許されないでしょう。
また無効でもあります。完全に焚書坑儒をしても、それこそ『華氏451度』のように人の記憶はどうにもなりませんし、海外との接触もあります。
過激なフェミニズムには僕も警戒感を感じますが、それはそれで中庸を意識すればいいのでは。
似たような選挙制度では、参議院が衆議院のカーボンコピーになるのは仕方ないです。
参議院を単純比例代表、衆議院を単純小選挙区制にすればそれなりにわかりやすいのですが。
ついでに人数も減らせるでしょうし。
社民共産の退潮、民主躍進も過半数は取れない…本質的には先の衆院選の延長です。
民主党の年金騒動でのダメージが民主党の全否定となり、行き場のなくなった自民批判票が棄権、無効票、死票に流れる、ことにならなかったのは意外でしたが。
小泉政権はどうなるでしょうか?
信任というのは無理がありますし、いわゆる選挙の小泉神話も崩壊したといっていいでしょう。
小泉神話自体は、次の選挙までに解散をしなければ自民党総裁としての任期が切れていますから、考えなくていいかもしれませんが。
ただその場合、国民に不信任とされた自公小泉政権による選挙なき長期政権、というどこか不自然な状態になるでしょう。
いよいよ参院選です。
ですが、結局小泉自公政権にもNo、民主党にもNo、もちろん社民党や共産党にもNoという人が多いです。
どれをとっても希望が見えないし否定的な情報しかない、ということで思考停止のほうが楽になるのは、間違ってはいない気はします。
それは白票や棄権になるでしょうが、結局それは小泉政権に対する白紙委任票です。
単純に小泉政権の是非を考えるのが一番良いでしょうか。
ただ難しいのが、小泉政権の是非といっても民主党もその小泉政権の重要な部分…新自由主義、小さな政府路線に賛同しており、ただその実行力の有無で競っている部分があることです。
何より小泉政権は自民党政権であり、しかもその方針に確固たるものが見られないため、それに反対すること自体が困難です。
ある方針に賛成でも反対でも、賛成なら小泉首相の実行力の乏しさを、反対なら方針自体を批判するほかありません。しかしそれは逆に、賛成なら自民党が元通りになって強い力を持つことは危険ですし、反対でも民主党に入れたら民主党政権が実行してしまう危険もあるのです。
混乱させられる状況です。
政治家の方向性として、
などいろいろあります。
今はどのような方向に向かっているのでしょう。そして、どのようなタイプが一番優れているのでしょう。
参議院選挙が迫っています。
ということは、スペインの例を考えれば大規模テロが起きても不思議ではないということです。
どれくらい警戒がなされているでしょう。そして、いくら警戒しても100%防ぎきることは不可能です。
最悪の事態にどう対応するか、準備はできているでしょうか。
日本にはイスラム系が少ないため、組織作りが難しいのが有利な点ですが、それに頼って現実の脅威を無視するのは賢明とはいえないでしょう。
そのときには日本の世論はどうなるでしょう。
あ、そういえば政権交代に至ったスペインの世論は、どのような道筋を通ってイラク派兵を拒否したのでしょう。テロとの戦いについてはどうしろとスペインでは言われているのでしょうか?
国松警察庁長官(当時)銃撃事件が急に動きました。
完全に歴史の闇として葬られると思っていたオウム事件の未解決部分に、光が当たるきっかけになるでしょうか。
本質的な問題は、オウム真理教の黒幕の有無です。それを暴けなければ一事件の犯人が暴かれても、さしたる意味はありません。
日本は右側が言うように堂々と自国の歴史を誇りを持って自らの子供たちに教え、世界にも訴え、そして軍事的にもきちんと国際貢献するのと、左側が言うようにとことん罪を認めてきちんと謝罪賠償し、平和国家に徹するのとどちらが世界におけるイメージをよくできるでしょう。
世界において『レイプ・オブ・ナンキン』『ヒロヒト』など日本の戦争犯罪を厳しく断罪する本が常識的な事実になってしまっている、ということを現実として受け入れるなら、それを真実と認めて謝罪するのとはっきり証拠を挙げて反論するのとどちらが正しく国益にかなうでしょう。
反論はそれ自体罪を認めていない、と責められますが、だからといって国民の相当部分が納得していないのに強引に異論を排除するのはどうでしょう。
現在の小泉、ブッシュ政権に対する批判は、特に左側からイラク反戦、反グローバルをからめて非常に多く見られます。
ただ、それらには大きな問題があります。対抗選択肢の弱さです。
共産圏の崩壊から、堂々とマルクス主義を主張することはできません。
非武装中立、非暴力不服従を意味する絶対的な護憲も、少なくとも多くの議席を獲得するほどの説得力はもうありません。
現実的で説得力のある政治経済理論を構築することができず、また現在の政党政治において支持できる政党が存在していません。
批判者には日本における民主党も、アメリカにおけるケリー候補も小泉自民、ブッシュの同類に見えてしまいます。
二大政党制は民主主義ではないからと目前の選挙自体相手にせず、ただ漠然とこの危険な路線に服従するな、怒れ、抵抗せよ、市民として連帯せよと叫ぶことしかできません。
ここで問題なのが、もしその読者が本当に怒り、服従を拒んだとして、その行き場(投票先)のない怒りはどこに行くでしょうか。
行き場のない怒りがたまることは非常に危険です。ヒトラーや武力革命など、とんでもないことになりかねません。
抵抗を訴えるなら「よりまし」でしかなくても、具体的な抵抗の手段、とるべき投票戦略を明示し、具体性のある政治経済社会思想を提唱すべきです。
それができないなら、堂々と左翼であるほうがまだましですよ。
アラル海が枯れ、周囲の自然が破壊されているのは、僕はこれまで農業や工業のやりすぎ、自然破壊の結果だと考えていました。
実はそれだけではなく、「自然大改造計画」と言われる非常に大規模な緑化計画の失敗も原因の一つであったそうです。
緑化さえ一つ間違えれば最も恐ろしい自然破壊につながる、と人類は己を戒めるべきでしょう。
また、世界各地で行われている成長の早いユーカリの植林は豊かな生物層がなく、ある意味死んでいると先住民が嘆くことも多いそうです。
植林自体が大量の水を消費してしまい、その地域の地下水を枯らして草原だったのが砂漠になることさえあるそうです。
うかつなことを大規模にしてはならないと思うべきか、それとも小手先の緑化ではどうにもならない水の大量消費、人類の大規模活動こそなくすべきだったと反省するべきか。
でも人類の大規模活動をなくせ、というのは人類の大半を近代的でさえない極貧生活に閉じ込めるか、または大半を殺すかでしかないのでは?
全人類に平等で豊かな、それでいて自然に優しい生活を、など始めから無理なのでは。
そう思わせるデータが嘘なのでしょうか。
それにしても、植林はどうするのが正しいのでしょう。
そして、ある程度以上の正しい緑化は本当に水蒸気の蒸散、反射率の変化を通じて降水を呼び、持続可能な形で(外からの水に頼らず)砂漠地帯を緑地にできるのでしょうか。気候帯レベルの砂漠地帯はどうにもならない気もするのですが。
この問いはタブーでしょうか、もし日本が男子普通選挙制度を1925年に成立させなかったら日中〜太平洋戦争は回避できたのではないか。
普通選挙法、政党政治は善だったにもかかわらず、悪である治安維持法とひいては明治憲法の統帥権条項、特権階級政治が戦争を起こしたのだ、という反論が予想されます。
ですが、普通選挙法は100%善で治安維持法が100%悪であった、と単純にいうのは物事を単純化しすぎているでしょう。
治安維持法は絶対悪扱いですが、日本の共産化を防ぐ必要があったことは否定できません。他に方法はなかったのかは問うべきですが。
そして、普通選挙があったにもかかわらず戦争が止められなかったのか、普通選挙ゆえに戦争が止められなかったのか…これは検討する価値があるでしょう。
世論、特に制限選挙では選挙権がない層が暴走しても制限選挙ならそれほど影響はありません。しかし普通選挙の場合、世論の暴走が政治にとっては非常に大きな影響力を持つことになります。
民主主義は世論の暴走を許すとどうしようもないことになります。
もちろん政府が世論を操ってしまうこともありますし、革命勢力も常に世論を操ろうとします。
では、何が民主主義をチェックできるのか…護憲派が言うように憲法九条でしょうか?
それとも伝統や宗教でしょうか?知的階層でしょうか?
子供に健全な決闘は必要ではないでしょうか。
決闘にはどんなメリットとデメリットがあるでしょうか?
メリットとしては痛みを知る、名誉と勇気を推奨される、格闘が一種のスキンシップとして作用して仲良くなることもある、なんでもないことで痛みを伴う争いを起こすことの愚かしさを経験するなどです。
デメリットは暴力という現在の教育現場では否定されている価値観を子供に教えてしまう危険です。
また体力という限られた物差しでのみ人を測ってしまい、しかもその弱肉強食で上下関係を事実上作ってしまうことも恐ろしいです。
また決闘で解決されるようでは、何が正しいのかをきちんとした法と言葉で示すことができません。
男女間の暴力はそれこそ最悪です。
しかし、そのデメリットにも反論は可能です…暴力は一つの現実であり、それに正義と勇気という要素を加えることで美徳にすることもできます。もちろん単純な弱肉強食、弱いものいじめに陥らないように美徳をともに教えるべきです。
体力という限られた物差しというのも、ではこれまではテストというそれ以上に限られた物差しで測っているではないか、と言えます。
法と言葉で何が(どちらが)正しいのかを解決させるのは、特に子供相手では非常に難しいです。嘘をつき通したほうが勝ってしまい、してもいない罪で責められるほうが子供にとって、フェアな決闘で負けるより傷は重いと思われます。何より元々、実社会では自分がただ正しいだけでは通用しないですし、法や理屈もそれほど絶対的ではありません。
男女間については、十歳ぐらいまではその意味では男女混合でもいいと思われます。十歳以降、男女及び女子同士では顔を傷つけず、無用な男女の身体的接触がないようルールの調整が必要でしょう。
具体的にはですが、決闘は元々危険があるので(命がけでない決闘など決闘ではないかもしれませんが、なら別の名前をつけてもいいでしょう)当然教師の立会いによる公的なものでなければならないでしょう。
殴り合いは危険ですし、残酷で空手などを習う金がある子が勝つのはいいと思えません。
むしろ、まず二人とも大声で名乗りを上げてから、ルールを少し弱めた相撲、五分間で一定量の計算問題、吹き矢の三本勝負というのはどうでしょう。
腹の底から大声を出せば、争いに至ったストレスの半分は消えるでしょう。
相撲の取っ組み合いはスキンシップとしての効果も強く、体格と気迫で勝負が決まるわかりやすさもあり、殴り合いに比べて安全です。勇気と技である程度体力の差を挽回する可能性もあります。
いうまでもなく日本の国技でもあります。
計算問題は冷静さを必要としますので頭を冷やすことにもなり、また体力はないけれど頭がいい子は挽回のチャンスを得られます。
そして吹き矢は体力、頭脳の両方が劣っているという、一見どうしようもない状況からも反復練習で上達できます。また集中力を高め、呼吸を制御することを通じて感情を制御するという大きな効果もあります。
十歳以上の男女、女子同士の場合直接の取っ組み合いは相撲や柔道でもよくないですし、まして殴り合いは論外ですので剣道かスポーツチャンバラ、またはサッカーやバスケの1on1にするべきでしょうか。
他に運動としてもすっきりし、男女の体力差が出てきた後も不公平がないよう技術のほうが重要で、危険がなく、間接的にせよスキンシップに近い効果…互いの心の読みあい…ができるスポーツは…テニスなど?
東京都青少年の健全な育成に関する条例が改正され、施行されました。
青少年を犯罪の被害者にも加害者にもならないよう保護する、小さい芽も見逃さないという趣旨は全く同感です。
ただ、コンビニのエッチ雑誌にシールを貼ることがどれだけ有効でしょうか。
そのような対策は、オープンであれば立ち読みするけれど、万引きをしたりシールを外したり年齢を偽って購入したりはしない層しか保護できません。
そういう層こそ保護したいのかもしれません、腐ったリンゴ理論で…ただ腐敗はどこからでも忍び込みますから、健全なリンゴを保護するやり方では不断に腐ったリンゴを排除せざるを得ないです。
そして、そのような響きのよい、誰も反対できない理由から表現、出版の自由を制限することにもちろん危惧は感じますし、東京都での施行は必然的に漫画、雑誌業界全体に対する大ダメージになります。
子供向けメディアというジャンル自体を潰すことにならないことを、大きな権限を与えられた警察がそれを濫用しないことを祈ります。
根源的には、青少年の性欲及び暴力欲というどうしようもなく存在する本能をどうするべきか、という問題があります。
昔のように宗教や警察力、軍隊、校則などを駆使してそれを悪として封じることができればそれはそれでいい気がしますが、問題はもうすでにパンドラの箱が開かれてしまっています。
また、「善良な風俗」自体は反対するものはいなくとも、それを権力によって強要していいのか、ということにも強い危惧を感じます。
確かに一部少女マンガを含む安易な性情報の蔓延には危惧を感じていますが、無知と嘘と抑圧の世界に子供を閉じ込める保護が現実的だとは僕には思えません。
隔離、浄化ではなく免疫をつけることはできないのでしょうか。
安易な性情報、暴力情報に含まれる嘘、邪悪を自力で判断できる子供に育ってほしいのですが…それは不可能でしょうか。
過剰な性教育は性倫理、性自認を崩壊させて人格、家庭、社会を破壊するという反対論もありますが…では果たして時計の針を戻し、現在すでに発表されている作品の大半を公権力で処分することが可能でしょうか。正しいのでしょうか。
この条例には、同時に刃物の販売についても規制していることにも注目すべきだと思います。
確かにナイフを用いた犯罪は多発していますが、ナイフを取り上げてもカッターナイフで十分だと証明されてしまいました。
ナイフを取り上げるのではなく、使い方を教えることはできないのでしょうか。
素手での決闘、野外活動を通じて暴力とナイフをコントロールさせることはできないのでしょうか。
性も暴力も、本来一人一人が責任を持って管理すべきものです。
子供でもそれは本質的には同じです。
だからこそ、正しいことを教える必要があると思います。
もう一つ強い危惧を感じているのが、一般的なメディアがこの条例や児童ポルノ法に単純所持、絵を加えて漫画を潰そうとした問題をほとんど取り上げていないことです。
保守も革新(フェミニズム、一部キリスト教)もエロ規制には積極的ですから、政治的には圧倒的な力です。
それをチェックできる力はないのでしょうか。
焚書だけは断じてしてはならない、という声が一般に響いていない、一般人の多くが無関心なのはなぜでしょう。
マウスとキーボードという、現在のコンピューター入力標準スタイルは果たして最善でしょうか。
操作そのもので言えばマウス操作からキーボードでのテキスト入力に切り替える動きの無駄、マウス自体の使いにくさ、現在多数派のプログラミングをしない低レベルユーザーはキーボードでファンクションキーやショートカットを使いこなす必要はないことなどがあります。
また、キーボードとマウスはどうしても広い面積を必要としており、モバイルには適していませんし携帯電話に組み込むのは完全に不可能です。
キーボードでなく言葉を入力するシステムとしては、手書きと音声、携帯電話のテンキー、タッチパネルがあります。
現状では手書きや音声はまだスピードも精度も高くありません。速さは音声入力が最上でしょうが、周囲の迷惑という問題がありますし、ファンクションキーや数字、記号の入力はやや苦手です。
テンキーやタッチパネルではどうしても長文の高速入力は不可能です。
理想は考えを直接脳神経から入力することですが…その前段階として、完全なブラインドタッチャーにとっては指に運動センサーをつなげば入力は可能、というシステムもありえます。慣れるまでは画面上キーボードを操作することもできるでしょう。
マウスとキーボードの切り替えが無駄、という問題自体は、右手をジョイスティック+親指で携帯電話式+人差し指と中指の2ボタン操作、左手はパイプオルガンのような多段キーボードとすれば解決できると思いますが、やはりマウス+キーボードの普及度と慣れにはかなわないでしょう。
もちろんマウスは足で使うのも有効ですし、近い将来視線でマウス操作はできると思います。