枕元の計算用紙
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本当にたびたび台風がやってきます。
やはり台風や集中豪雨のような大雨には、傘は役に立たないですね。
また、足元も普通の靴ではすぐ濡れてしまいます。
もっといい、足元もカバンも完全にカバーできる雨具はないものでしょうか?
ポンチョは確かに上半身はほぼ完全にカバーしますが、足が無防備ですし、汗で結局濡れることが多いです。
長靴も、特に大人になれば普通使いません。不思議なことに、靴の上からはける長靴はほとんど見かけません…学校や職場のロッカーにそこまでのスペースがないからかもしれません。
足元は少し高価ですが防水透湿素材を用いた防水性の高いコンバットブーツで固め、すねを防水布でブーツの上部やズボンごと巻いてしまえば大丈夫でしょうか。
膝近くまであって、簡単に靴を履いたまま脱いだりはいたりできるゴム長靴があればいいのですが…
まあ、正解は割り切って濡れることでしょう。どうやっても濡れるのですから。
しかし水があふれるのが多いですね…理由は公共事業費を削ったからでしょうか?
ロクに削っていないのに余計なものにばかり使って、肝心な治水に使われていないからでしょうか?
コンクリートで治水を行う発想自体が間違っている、河川湖沼は自然のままに保ち、人間のほうが洪水に合わせて一段高いところで暮らすようにすべきでしょうか?
山が荒れて森のダム機能が失われているからでしょうか?
ま、複合的なものでしょう。
貧富の差がどうせ開くなら、多額の税金を払った人には特権を認めていいのでは?
そういえば、特権とはどのようなものでしょう。現憲法においては「認めない」と、否定的な意味でしか扱われることはありません。
たとえば無修正ポルノを手に入れていい、車をより早く飛ばしていいなど、愚行権をより高く認めるのが特権でしょうか?
それとも、士官学校に優先して入れるし、軍では常に最優先で昇進できる、というのが特権でしょうか。
または多少の犯罪は見逃される、普通の人はその特権を示す徽章を見ると頭を下げ、道を譲らなければ犯罪であるなどの身分としての特権?
特権がなければ、人間を分けるのは貧富だけです。そうなれば拝金主義は仕方ないのかもしれません。
逆に名誉、人徳が特権として認められれば…例えば江戸時代の孝子表彰のようなものがあれば…
現在の叙勲は公務員、議員の勤続がほとんどで、わかりにくく権威があるようには見えません。
漢詩も英語詩も、韻に複雑なルールがあるので授業でちょっと詠むのは俳句や和歌と違って無理なのが残念です。
そういえば、今の中国で漢詩は詠まれているのでしょうか?いないとしたら残念なことです。
日本で詠める人がほとんどいないのも残念なことですね。
世界は不平等化に向かっていると言いますが、その不平等に倫理的な裏づけがついてきていない気がします。
建前上は自由平等民主主義、実態は貧富の差が激しく金持ちの子は金持ち…それが拡大を続け、ある程度期間がたてばそれが実質的に身分となり、民主主義自体が否定されて身分制社会になることはないでしょうか?
建前だけ自由平等民主主義であるより、むしろきちんとした身分制社会のほうが誰もが暮らしやすいのでは。
もちろん誰もが、身分制のきちんとした倫理を守るよう強制されて…イギリスのノブレス・オブリージュ、東洋の儒教や武士道のように上にも守るべき倫理があれば。
また、マザー・テレサの金持ちでも孤独で心が貧しい人がいる、という言葉も重要になる可能性はあります。
だとしても、金持ちのうちの多数が自発的に、単なる寄付以上に全財産を捨てたことはないのですが。
いつごろ不平等化に道徳が追いつくのでしょう。
それとも不平等化の流れを変え、自由平等民主主義を守ることができるでしょうか?
それとも倫理なき不平等化が暴走し、遺伝子改良も伴って種が分化して金持ちで改良種はいかなる倫理も必要ない、となるのでしょうか。
「中庸新聞」があればいいのに。
新聞を選ぶのに何にするか迷いますから、たとえば原則として政府広報をそのまま発表、それに左右両論のコメントがつく形にすれば。
どうせ政府広報、記者クラブ発表じゃないスクープなんて誌面を維持できるほどはありませんから。
両論併記は中立ではないのかもしれませんが…では何が中立なのか、そして中庸とは?
なぜ古い文明である中国やインドから、サッカーや野球に匹敵する、武術ではないスポーツがでてきていないのか…と考えると、文化によってスポーツの地位が明白に違うことが分かります。
近代西洋においてはスポーツは貴族の楽しみから誰もが楽しむものになり、サッカーやアメリカの野球、バスケ、アイスホッケー、アメフトは世界レベルの娯楽産業ともいえますし、学校の体育でも重要な地位を占めています。
ただしクロケットやポロ、乗馬や狩猟は貴族のものに近い気がします。
近代西欧では大衆から貴族まで地位に関わらず自らもスポーツを楽しみ、プロスポーツを見て楽しむのはギリシャローマ文明の遺産でしょうか。
ただし、近代西欧のスポーツにはギリシャローマほど、「徳」としての精神的な目的意識はないようにも思えます。
日本では、確かに公家には蹴鞠があり、本来なら射馬もたしなみではありましたが、むしろ武家の剣術、柔術を中心にした武術が中心でした。それは地位の象徴であり、また「道」という言葉があるように宗教的でさえある非常に高い精神的な目的意識の基盤であり、地位にも密接に関わる能力評価の基準でもありました。
中国においてはどうでしょうか?そう考えると、明や清の生活習俗を僕が知らないことに気付かされます。上下地方を問わず、少なくとも生活を忠実に描写するタイプの小説は無理です。
武術は高度に発達しましたが、現在のように庶民の多くが太極拳をやるようになったのは昔からでしょうか?
欧米のサッカーやオリンピックのような概念はないようですし、儒教倫理は体を鍛えることをそれほど求めないようです…貴族などはどれほど体を鍛えることを重視してきたのでしょう。
そして、イギリスに支配されるまでのインド文明は?ギリシャローマの正統継承者でもある回教文明は?
意外と知らないものです、特に近代直前の世界各文明の生活は。
日本が国連安保理に入るべきだ、と小泉首相が決意を表明し、主に憲法問題で議論が起きています。
演説要旨を読む限り、他にも注目すべき点はあると思います。「人間の安全保障」概念を強く提唱していること、アフリカ問題を強調していることなど…それらは忘れられるか、特に護憲側は憲法改正のための方便だと無視するのでしょうね。
演説や記者会見は全体が意味を持つ場合が多いのに、全体を放映、掲載しないことはしばしばあります。今日妥結したプロ野球の交渉も、テレビは古田選手会長の会見全体をじっくり放映しようとはしませんでした。
そしてテレビを見、新聞を読む側も、全体を聞き、読んで検討することはまずしないです。
その力の低さが、「ワンフレーズ・ポリティックス」の一番の病原でしょう。需要、大衆の側がきちんとしていればそうはならないことです。
視聴率目当ての俗悪番組や子供の性の問題もそうですが、結局民全体が悪くなってはどうしようもないのでしょう…でもなぜ、こんなに初等教育が普及しているのに。
ナチを生んだドイツ国民は当時最も教育が行き届いていた国民であったように、普通教育も万能ではないのでしょうか。
ロシア伝統の南下政策といいますが、一体どこまで南下すれば満足するのでしょう。
不凍港が得られればそれでいい、ピョンヤンとイスタンブールでしょうか?
それとも外洋に出られる函館とクウエートまで?
いや、世界の海に君臨できるよう、シンガポールにスエズ運河からペルシヤ湾と紅海の両方の出口まで支配したかったのでしょうか。
東アジア型王朝の治世が長いと、美人の遺伝子は減ってしまうのではないでしょうか。
美女は王や貴族の後宮に召し上げられ、三千のうち数人を除いては一生子供を生む機会なく過ごして遺伝子資源を無駄にします。
主君に愛されて子供を生み、栄耀栄華を極めた幸運な女とその家族も、逆に俗滅のリスクが恐ろしいほど増えてしまいます。美人遺伝子を持つ一族に多数の子孫ができ、それがばらまかれて多くの栄える家となるのは非常に難しいでしょう。
勇者遺伝子も同様です。
貧富の差が激しい社会と平等な社会、どちらが環境にいいのでしょう。
ほとんどが車を持ち、皆が肉を食べる社会と、どちらもごくわずかな金持ちしかできない社会では…後者のほうが環境にはいい気がします。
でも、後者である途上国でも悲惨な環境破壊は起きているのがまた現実ですが。
特に木材や牛肉、金銀など自然そのものを切り売りして輸出したときに。
かといって、北朝鮮のように経済制裁で海外との貿易がろくにない国も環境を破壊している事には変わりありません。少なくとも人口過剰はどこでもあるので。
チェチェン紛争で悪いのは帝政ロシア以来の南下政策で一方的にチェチェンを支配したロシアであり、スターリンであり、現在も暴虐を続けるプーチン政権だ…それは事実かもしれません。
しかし、それはもう起きてしまったことであり、過去を変えることはできない以上過去をいかに責めても意味はありません。
アメリカの起源自体、白人が先住民の土地を奪い、虐殺したことは事実ですが、それを元に戻すことはどうやっても不可能なのと同じです。
イスラエルの存在自体が侵略だといくら言っても、パレスチナからユダヤ人が出て行くことも不可能です。
イラク戦争が間違い、フセイン政権やアルカイダ自体アメリカが創ったといくらいっても、その事実を知ることで現状をどうすることができるのでしょう。
元に戻すことはできない…それを支配者、被支配者、第三者のすべてがよく飲み込んで、過去ではなく最も満足がいく未来を考え、それにつながるよう現在の政策を変えるべきではないでしょうか。
ただし、問題は選択肢がない状況が多いことです。
前に考察しましたが、双方が相手に不信感を持っていると譲歩できないため非常に悪いことになる、だから信頼感を醸成すればいい…でもそれは不可能です。
恨みに凝り固まり、誰もが家族を殺され、「口を黙らせれば石が叫ぶ」ように自爆テロを行う被支配者を止めることはできないでしょう。
いくら被支配者側指導者が交渉のテーブルにつき、テロをやめると約束したとしても、その約束は護られないでしょう…誰かが破り、あくまでテロを止めようと弾圧に走る被支配者側指導者は過激派の支持を失い追放、暗殺されるだけです。
人間心理から、虐げられ敵意に満ちている集団が過激化を押さえ、理性的に行動することはできません。声が大きく過激な者が常に勝つものです。
そしてテロ組織が暴力と脅迫で人々を支配することも、止めることはできないでしょう。従わなければ家族ごと殺すと脅迫、きちんと実行する組織に、どう逆らえというのでしょう。
逆に支配者の側も、テロに屈するわけにはいかないという原則を破ることはできません。
テロが存在する限り強硬路線以外の選択は不可能でしょう。
今朝の社説をネットで読み比べてみると、あまりにはっきりした立場の違いにびっくりしました。
読売新聞だけが徹頭徹尾オーナー会議の側に立ち、逆に他紙はすべて選手会(と世論)の側に立っています。
ジャイアンツのオーナーである読売新聞がその立場に忠実なのはわかります。
では、だからといって他紙の言葉はそのまま信用できるのでしょうか?
それも怪しいです。オーナー会議、特に渡辺氏が悪役とされたこと自体、マスコミが世論を誘導してる気がするのです。
どうすれば冷静な、流されるのではなく高みから流れを見る立場に立てるのか…未来、宇宙人の立場から歴史模様を見ることができるのか…難しいです。
小泉ヤケクソ解散、とタブロイド紙の大見出しにありましたが、本当に今小泉首相が
「大きい政府か小さい政府か、それだけだ!事実上国民投票だ!」と解散したらどうなるでしょう。
まあ小泉首相は…何を考えているのかは、所詮他人ですから分かりません。
「これまでやってきたことからみると、自分の政権維持とアメリカの言いなり以外ない」というのも、本人でもないのにそこまでわかるわけではありません。
イスラム圏はどうなりたいのでしょうか。
端的に言えばこうです、イスラムの伝統を遵守し、かつアメリカ以上の物質的繁栄、軍事的覇権を得ること。
不可能です…日本刀が黒船の前で無力なのと同じく。
そうである以上、少なくとも不満は続きます。
近代西洋の産業、市民革命がキリスト教原理主義運動といってよい宗教改革の結果であったように、イスラム教の原理主義運動が近代化につながればいいのですが…それはコーランの性質上、極めて難しいようです。
新約聖書を(適度に)遵守しながら近現代社会を築くことはできますが、コーランを遵守しながらそれはできるでしょうか…
ただ、本当のところは分かりません。
イスラム圏にも声を出せないだけで、近代的な考え、自由で民主的な社会制度とイスラムのもっとも深い教義をうまく調和させている思想家もいるでしょうし、抑圧的な政権の下沈黙しているだけで、本当は多くの市民たちがイスラムと近代が調和した社会を構想しているのかもしれません。
いや、非常に幅があるのでしょう。モハメッドの時代と同じメンタリティーの者、逆にそういう伝統から切り離されて頭の中だけでコーランを読んで守ろうとしている者、近代教育を受けた者…
環境と反戦を切り離すことはできないでしょうか。
特に保守層は、反戦という言葉があるだけで同類の左翼思想だとアレルギーを起こすでしょう。
その結果、内容と関係なく環境が主である本も読まない、政党の主張にも反対するということもありえます。
環境の議論は別に、保革の別なく深めるべきです。
本来なら保守側も、保守するべきものは自然に満ちた美しい国土、という意味で環境に深い関心を持ってしかるべきなのですから。
領土問題は入札のようなものでしょうか。
そこのために、最も多くの…金の代わりに、戦死者を出せる覚悟がある国がそこを領有できる、と。
アルゼンチンは、イギリスがあれほどの戦死者に耐えられるとは思わなかったからフォークランドを攻めたのでしょうか。
でもそうなると、日本が周辺諸国と抱える領土問題は、日本が戦死者を出せない以上…向こうが全面戦争もいとわずいかなる妥協も拒否するなら、日本の負けに決まっているのでは?
もちろん入札は、単に予算が高いほうが勝つのではなくさまざまな駆け引きがあります。それは外交に当たり、それもまた大きいでしょう。
本当に金で入札してかたをつけることができればいいのですが。
よく見かけるのが「戦争は断固反対です。いかなる理屈であろうと、戦争につながる改憲を許す理論、論拠は認めてはなりません」という言葉です。
それは、結論がはじめに明確にあり、それ以外の言葉を排除しています。
しかも、その結論は「戦争をしない方法は護憲以外ない」または「改憲は戦争につながる」という、本当にそうなのかわからないことと「戦争には反対」という誰も反対しない言葉をくっつけているという点で強引です。
それでいいのでしょうか?
互いに議論を拒否し、絶対的な結論にしがみつく状態は不幸です。
少なくとも、それは理性的な第三者を説得しようという姿勢ではありません。感情に訴えて単一の価値観を押しつけ、閉じたサークルで満足する姿勢です。一言で言えば悪い意味で宗教です。
もちろん逆の側にもそれは多く見られます。
北朝鮮での爆発は何が起きたのやら…どの道分からないことは考えすぎないほうがよさそうです。
9.11テロがアメリカの陰謀なのではないか、オセチアのテロもロシア軍の自作自演なのではないかという噂も、結局いくら調べても明確に分かるわけはないのですから分からないままにしておくのが賢明でしょう。
「天国にスラムはない」…でも、金持ち専用城塞都市にもスラムはありません。
都市にとってのスラムと同様、天国があれば地獄もあるのではないでしょうか。天国とは、究極の差別によって成立しているスラムのない幸せな世界ではないのでしょうか。
実際に天国と地獄があるのかは分かりません。でも、地上には楼閣とスラムがあります。
それをなくすことはできないのでしょうか?社会主義の失敗はできないといっているように思えますが…
そして、スラムの中での奉仕にどこまでの意義があるのでしょう。確かに何百人も何万人も天国に…安らかな最後を与えることはできますが、スラムをなくすことはできないままです。
どうせスラムをなくすことはできないのなら、スラムの内外を問わず、貧富を問わず不幸な人に奉仕することを神は求めているのかもしれませんが。
同時多発テロから三年、結局ブッシュ大統領は世界からテロをなくすことには失敗しました。
でも少なくとも今の段階では、アメリカは核テロに見舞われていませんし、もっと重要なことですが崩壊していません。
どうすればよかったのか…あ、「もし2001年9月11日にあなたがアメリカ大統領だったら」という問いには本来、正解などないのでは!
しかし護憲派ははっきりと答えが出ているようです、「報復ではなく法の裁きを」「戦争ではなく人間の安全保障を」などと。
考えて見ると他の事も、イデオロギーで考えが固まってしまうと、あらゆる社会問題や政治上の問題に「正解」ができてしまいますね。
それは非常に危険な気がします。
逆にアメリカ政府側にとっても、答えは明白に見えます。それも危険では…いや、もちろんどうすればいいかについて正解はありませんが、曲げてはならない原則はいくつかあります。
などは必要でしょう。他にも色々あるかもしれませんが。
そう考えると、平和という面では一番賢明である「テロは無視」することはできないんですよね…
プロ野球の選手会がストライキをするという話です。
日本の野球人についての、奴隷状態を自ら求めるように甘受しているという評からすると不思議なぐらいです。
これは武士道の一つのありかたかもしれません…確かに主君、権威に対しては従順でありいかなる苦痛も死もいとわないが、かといってロボットでも家畜でもなく、その従順さを誇るが故である、と。
そして、「悪いようにはしない」という言葉で法の精神を無視した服従を求める上も、その「悪いようにはしない」という契約は守る義務がある…
だからこそ、年俸など私的なことでストライキをするようなことはしないけれど、野球をプレイする場まで奪うようなことはさすがに許せないということでしょうか。
それとも野茂、イチロー、松井選手などがメジャーリーグで成功したことが、日本で頑張っている選手の視野も広げて日本式の考え方だけでなく、アメリカ式の合理的な考え方、自由の概念が流れ込んでいるのでしょうか?
かつてのようなマゾヒステックな軍隊式絶対服従が野球人の倫理ではなくなってきているのでしょうか。
ファンは選手会を支持しているようです。
でもいやな予感はします…あっさりと選手会は屈服させられ、今回の首謀者は本当に実に簡単に野球生命を絶たれるか、または根性を入れ替えるため、と称するハードなキャンプで、本当に死ぬまで練習を強いられるのではないか、と。
一部の皮脂腺を遺伝子などでいじくって、大量の皮脂を出しっぱなしにできれば、少なくとも胃の一部を切り取るよりはいいダイエットになるかもしれません。
まあどこをいじるか、それをどうカバーするかは非常に難しいですが。
『寄生獣』というマンガでは、そのパラサイトの卵は一度だけ空から散布されるような描写でした。
でも、その卵を安定して入手し、安全に扱う…主人公のように腕を縛ってそこに寄生させ、脳に達しないようにする…ことができればどうでしょう。
そうなれば、極めて高い知能を持ち、宿主の生命を守るためのみですが凄まじい戦闘力を発揮し、おそらくはいくつかの仕事を人間以上にこなせるパートナーを手に入れることができます。
ただし、それは宿主のものであっても不合理な要請(自己防衛でない暴力、テストの手伝いなど)には従いませんし、特に自分に不利なこと(『寄生獣』作品中では腕ごと切り離す、他人にパラサイトの存在を告白するなど)をしようとしたら宿主を植物人間にする、という脅迫も辞さないです。
それを買える貴族、または全ての人がそれを体に住まわせる社会はどうなるでしょうか?
注目すべきなのは、『寄生獣』のパラサイトが極めて合理的な思考をすることです…感情が存在しないように思えるほどに(作中で何体かのパラサイトに感情を示唆する言動がありましたが)。
たとえば死刑に値するような愚行をしようとしたら宿主を全身麻痺にすることも辞さない、常に冷徹で合理的な助言をするパートナーを多くの人が持つ社会はどう変わっていくのでしょうか。
そのうちに、より頭のいいパラサイトのほうが命令を出して適切な行動をとらせるようになるかもしれません。
はじめは反発しても、人間には本質的に服従していたほうが楽という面もあります。そうなればその社会は非常に幸福になるでしょうか。
「自分の国は自分で守る」ことは、すなわち護憲…非武装平和主義に至らざるを得ないかのようにいわれてきたのが日本の面倒なところです。
普通でしたらきちんと軍備を持って民主主義とシビリアンコントロールでそれをつかいこなし、近隣諸国と対等に同盟し、その上で国連の平和維持活動にもきちんと参加するのが「自分の国は自分で守る」ことのはずです。
でもそう主張したら単に戦争をしたいだけ、アメリカ追従などの微妙にずれた非難が飛んできます。
まるでこの世には、アメリカ追従かつ戦前回帰という矛盾した勢力と、護憲平和主義の二つしかありえないかのようです。
まあ逆もそうですが…自分に反対するものをすべて敵というレッテルを貼るのはよくあることですが、愚かです。
世論にテロを止める力はあるのでしょうか。
戦争反対運動は一定の力を持っていますが、逆にそれはテロや共産ゲリラを止めることはできるのでしょうか?
ベトナム反戦運動も、米軍を止めることはできましたがベトコンを止めることはできませんでした。
今度のチェチェンのテロに対して、世論はロシアを非難することはできますし、それがもしかしたらチェチェンでのロシア軍の暴虐を止めることはできるかもしれませんが…テロを止めることはいくら非難してもデモをやっても止められはしません。
予想以上の犠牲者の数には言葉もありません。
それが、テロリストたちが片端から人質を虐殺したからなのか、それともロシア特殊部隊が人質ごと皆殺しを図ったからかは多分半永久的に藪の中でしょう。
ロシア軍もテロリストも報道機関も、真実という点では信頼に値しません。
歴史的には、こういう…抵抗と武力弾圧が激しく起きた地域はどうなったでしょう。
古代ローマ時代から近代まで、どのようになることが多く、政府側がどうすると一番早く安定し、現地の住民が幸せになっていったでしょうか。
………………本当にチェチェンはどうすればいいのでしょう。
このようなテロをやらかす連中に、独立させることなどできるはずがないです!
けれどもロシア軍が、チェチェンで暴虐を行っていることも確かなのです。
それに対し、チェチェンの人間の立場に立てばどうすればよいのでしょう。
絶対にテロを行わず、テロ停止と引き換えに自治権を要求…といってもチェチェン人がテロはやめろなどといえば、自分が無数の恨みの標的とされ、当のチェチェン人に殺されるでしょう。その恐怖と憎悪の支配から逃れる術はありません。
ロシアもチェチェンも強硬派が力を持っており、利権を持っています。どちらもその利権を守るためには、底なしの泥沼が続いているのが一番いいですし、テロと報復の応酬はそれだけ双方の強硬派の権力基盤を強化し、穏健派を黙らせる力があります。
一つのポイントは、チェチェンの悲惨を世界に知らせることです。
その点ではこのテロも無効ではないのですが…ここまでひどい結果になれば、いくらひどいのは実質人質ごと皆殺しにするロシア特殊部隊だといっても通用しないでしょう…チェチェンの側の言葉に耳を傾ける人は少数でしょう。
イスラエルの自爆テロも非道だがパレスチナの住民の生活も悲惨…イラクの自爆テロもひどいがイラク住民、特にテロリストとされた者に対する米軍の…どちらもひどい、というのが、少なくとも子供の視点で見れば真実なのでしょう。
他にも世界から注目されない、悲惨な人は数多くいます。中国に占領されたチベットや新疆ウィグル…アフリカ全域、特にスーダンなど中央アフリカ…中南米…
どうすれば、その悲惨にもっと多くの人が目を向けてくれるでしょう。報道産業が悪い?
そして、それらの悲惨とテロは解決可能なのでしょうか。不可能な気がします…改善さえもあまりに難しい。
少なくとも、憎しみの連鎖はやめろといいますが政府側が一方的に攻撃をやめたからといって、それでテロがなくなるわけではないでしょう。
中世のヨーロッパに見られた領主の初夜権は一見非道に見えます。
でも、花嫁が処女ではなかった場合殺してしまうような社会だったら、もしかしたらそれで女性の命を守ることができたかもしれません。
逆に領主が処女かどうか確認した上、処女でなかった場合容赦なく処刑することで、嫁いだ家の内部の温情で済ませることを許さなかった可能性もありますが。
地震や噴火、そして今年猛威を振るった台風など、常に災害はどこにでも襲いかかるものです。
今関東大震災、富士山大噴火クラスの災害が起きた際、どれだけ適切な行動が取れるでしょうか?どの程度の装備が手元にあるでしょうか?
備えよ、常に…忘れてはなりません。
それで不思議なのが、火山噴火を描いた映画「ボルケーノ」のテレビ放映が中止されたという件です。
確かに被災者は不快感を感じるでしょうが、多くの人が冗談ではない脅威として噴火を認識することができれば、それはむしろプラスなのでは?
どうしてこういう、「備えよ、常に」に反する発想が多いのか…
護憲とは、日本は民主的に平和を保つことができないという意味ではないでしょうか。
きちんと民主主義が機能してさえいれば、少なくとも無駄な戦争はしない、または犠牲に値しないと判断し、中止できるはずです。
それを否定するということは、現在の国民の主権を認めず、憲法制定者(もしくはそれに同意したとされる当時の国民)の監視、支配が永久に必要ということではないでしょうか。
それには大きな矛盾があります。
日本が民主主義国家でなく、これから民主主義国家になる可能性もないならば、いつかは結局戦争への道を歩むでしょう。
憲法という条文と、それを守ろうとする少数者がどのようにそれを防げるのでしょうか?
そして、少数者が主権者であり続けてもよいのでしょうか。護憲が少数なのは明白な事実です。