枕元の計算用紙

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30

僕が誰か美女に恋したら、相手に嫌な思いをさせたくないので身を引いて彼女の前から消えなければなりません。
万一、一目で両思いと確定しても、僕には人を幸せにすることなどできないので身を引かねばなりません。

だから僕は恋を恐れています。

29

スペースを考えるとロフトベッド+下に学習机と収納の構造は素晴らしいです。
個人的には、最初からロフトベッドであればその後の一人暮らしでは楽だっただろうな、と思います…病気をしたら大変ですが。

逆に普通のベッドをロフトベッドのようにできる、机とタンスがついた台があれば、高くて狭い部屋で一人暮らしを始めるベッドをすでに持っている人には有利でしょう。
単に台だけでもいいのです。

いや、普通のベッドを上に載せられる物置があっても、高さがせいぜいダンボールの標準的な箱が入る程度でもかなりの容量があるでしょう。

そう考えるとベッドの上の物置も容量は大きそうです。
そこから天蓋のようにカーテンでベッド周りを囲っても保温性高そうですね…窒息しなければですが。

ベッド使用者が持っているデッドスペースは恐ろしいほどです。
考えてみれば畳に布団・折りたたみベッド・ソファーベッドでもそれはある程度有効利用できますね。

28

俗流若者論に、「若者は仕事をえり好みする、だからワーキングプアは自己責任だ」があります。
でも就職活動では熱意を求められます。
つまり好きでない仕事でも熱意を持って取り組む人材が求められている、と。
矛盾していないでしょうか?

好き嫌いなど言う余地はない、ただ生きるため、いや数年後どの道高い確率で餓死するとしても今日一日生きるために、死に物狂いで熱意を込めて働くのが人間だ、と?
女工哀史や蟹工船が、手を止めたら鞭打ちで鞭に反応しなくなったら海に放り込まれるガレー船奴隷が(自分以外の下等な)人間のあるべき自然な姿だ、と?

雇用のミスマッチで根本的に悪いのは、人が仕事に好みを持つからでしょうか。
人が好みを持たなければいいのでしょうか。
それは実質人であるなに近いのでは?

また、派遣村に居酒屋チェーンが求人を出し、それに応募しなかったことで批判されましたが、業界に染みついている労働条件の悪さも考慮してはいけないのでしょうか。
居酒屋など飲食店の労働条件の悪さは知れ渡っています。
人手不足を言われる介護・農業・中小企業も労働条件が悪いです。
ただ今日がきついだけならまだしも、明日がないのです。
労働条件がどんなに悪くても死ぬほど熱心に働け、そうでなければ死あるのみ、というのが正しい社会でしょうか?
その業界の労働条件をあげることはなぜ誰にもできないのでしょう。

明日のことを考えるなというなら明日は国が補償するでなければ、明日になったら死んでます。
スマイルズの「セルフ・ヘルプ」が言うように頑張って成功する人は中にいるとしても、それは少数の例外です。
多数はどんどん貧しくなって体が利かなくなれば沈むだけです…高度成長がない経済状態であれば。統計として。

慢性的な労働条件の悪さはアニメ業界もひどいらしいですが、何か違う気がします。もちろんアニメ業界も改善しなければならないのでしょうが。
アニメ業界は志望者が圧倒的に多く、その多くは給料が無しでも働きたいほど熱意があり、業界の収益構造がそれに依存しています。
では介護や農業も同じように志望者が多いのでしょうか?だったら人手不足が言われるはずはありません。

あと氷河期世代の問題はいまや、実力格差をどうするかだと思います。
実力と賃金が向上する職が極端に少なくなった、というのが現実であれば、そこから弾かれた人はどうするべきでしょう…経済的に最も合理的なのはガス室送りにして途上国の超低賃金労働力を使うことです。
また向上する職でないと群れの一員としての尊厳も得られないとなれば、福祉が答えにならないのです。
職業訓練も、生きられる職そのものが絶対的に少なければ意味はありません。

現実がどうなっているのか自体僕は知らないのですが、どうすれば皆を生きさせることができるのでしょう。
それとも単純に…この世は所詮弱肉強食、強ければ生き弱ければ死ぬ、でいいのでしょうか。それは国益にもならないのでは?

生きられない仕事はどうにかして生きられる仕事にすること。
高い技術の産業を興して生きられる仕事を増やすこと、その高い技術に結びつくよう教育・既卒失業者の職業教育を変えること。
必要なのはそれでは?
そうでなければ、明日若者皆の脳を入れ替えたとしても、統計的に十年後多数の餓死者が出るだけです。

27

ワークフェアとかいろいろいいますが、職業訓練は本当に有効でしょうか。

たとえば、企業にアンケートをとったらフリーターを採用する企業が1.7%しかなかった、というのはよく聞きますが、さらに「公的職業訓練を受けたフリーターを採用するか」「三十代後半でも」を入れたら…芳しい結果にはならないと思います。

あと仕事は探せはあるといいますが、生きられる仕事はあるでしょうか。
人手不足の業界がたくさんある、ともいいますが、需給論で言えば人手不足になれば労働条件はよくなるはずなのですが…なぜそうならないのでしょう?
雇用制度が硬直的だからでしょうか?では解雇を自由にすれば、人手不足業界の労働条件はよくなるのでしょうか?
それとももっと深い理由があるのでしょうか?

雇用のミスマッチを何とかするには、今人手不足である業界が「ここは安全である」ことを証明する必要があるのでは?
条件がどんどん悪くなる一方になる流れがあるのでは。
その仕事が成長でき、技能を手につけて一生暮らしていけること、新卒でなくても入れること、生存できること、集団の一員という尊厳を得られること…
放っておけばどんどん状況がひどくなる、そうなれば「生きていくにはこの(悲惨な)仕事しかない」まで甘やかされてわがままになった馬鹿どもを追い詰めることができる、でいいのでしょうか?

高付加価値の仕事を、といいますが、それがどんどん希少になっていることはないでしょうか?
また、高付加価値の仕事に入るための専門学校が、ますます出ても就職できる確率が低いところになっていることはないでしょうか?

根本的に今、教育はどれほど役に立つのでしょう。
義務教育がない国から、日本史では元々寺子屋などがあったのでややこしいですが義務教育が日本の尋常小学校で四年、六年、そして戦後の十二年と延長されていきました。
その都度国は豊かになったようです。
それが高校も含めた十五年、更に大学を含めて十九年になれば、もっともっと豊かな国になるのでしょうか。
それともこれからの時代、教育はごく一部のエリートを除けば無意味なのでしょうか。

少なくとも生まれた年代で決定的に平均生涯賃金が違う、というのは無茶な話です。

きちんと教育を受け、失職しても職業訓練を受ければ生きられる、という前提がなければ社会の底が抜けるのでは?

26

まず、「人類のほとんどを殺す」事に賛成しますか?

賛成するなら方法や生かす基準を考えてください。
それが一番合理的・現在の科学技術水準で可能・現実的な温暖化対策・石油枯渇対策です。

賛成しないなら次に、「人類全員をギリギリの生存にとどめる」は?
最低限のトウモロコシと豆の粥のみで肉や魚などなく卵や乳製品さえ年に一度あるかないか、電気はおろか本もろくになし。
ごくわずかな配給の水で伝染病が蔓延しない最低限の清潔を保つだけの生活です。
これもまた合理的です。

それが気に入らないなら「一部貴族は今までどおり贅沢、残りは最低限」がお望みでしょうか。
それもまた、今の社会システムから言って社会的な抵抗が最も小さく実現可能性が高い未来でしょう。

上のどれも嫌な方、要するに人類全員がある程度いい物を食べ、本を読んだりインターネットをしたり電気を使ったりする暮らしをすべきだ、と。

だとしたら、温暖化があってもなくても石油はいつかなくなるのですから、その後エネルギー・水・食料をどこかから手に入れるかです。
風力発電や太陽光発電、太陽熱発電や波力発電は使えるでしょうか?

それだけで足りなければ、もっと大きい技術が必要なのでは…

これぐらい考えて研究開発しておけばどれかはうまくいくのでは?
まあほかも、科学的である限り考えるのは禁じないで。

それとも科学も放棄して、伝統的な農法でもうまくやれば百億が食べられるでしょうか。
でもエネルギーは?薪炭で地球が養える人数は?

25

知性や科学を嫌う社会的力の歴史も結構興味深いです。

僕にとっては文化財破壊史は虐殺の歴史や奴隷制の歴史以上に我慢ならないものになるかもしれません。
でも文化財の破壊、科学の禁止、知性に対する攻撃は人間の歴史では本当に重要です。

逆に唯一その束縛を逃れた西欧に一体何があったのか、というのも歴史で一番重要な問題の一つでは?

といっても今の、特に「アメリカのタリバン」やテレビそのものの反知性は凄まじいものがありますけど。

24

帆があって風を受けて走ることができ、また帆は薄型太陽電池でもあってその力も借りられ、自転車のように人力でも走れる軽い車があったら楽しそうです。

頭の中で大体の設計はできているんですよ…帆はサーフボードの上三分の二ぐらいの形。
車の全体は前に方向を変える一輪・後ろに駆動する二輪の三輪車。
寝るような感じで低めに座ってこげる、後ろには50×35×90cmぐらいの荷物スペースもある。
ちなみに自転車のようにこぐだけでなく電動アシストもついており、もちろん太陽電池がそれにつながっている。
後ろのほうから上に出ている柱に固定され、ボタン一つで立ち上がって帆になったり、倒れて乗っている人の上を覆う太陽電池屋根になったりする。
右手で方向とブレーキ、左手で帆と電気系統をコントロールする。速度だけでなく風向風速も常に表示され、帆を自動制御にすることもできる。

特に広い路面で風を受けて飛ばす爽快感はものすごいでしょう。普通の道路では基本的に帆をたたんで太陽電池アシスト自転車になりそうですが、それはそれで便利でしょうし。
まあ実際やったらものすごく危険でしょうけど。
上手回しや帆の方向転換などの帆の技術が、自動車とともに走っている微妙な道路でまともにできるとは思えないですし。

というか単に自転車やスケートボードや車椅子に帆をつけたらどれほど早く走れるでしょう。
帆は船のもので車に帆をつけることがない、というのも不思議な話です。

23

群れ動物としての人間の正しい飼育法は?
言い換えれば人間文明を制御するには?

まず物、具体的には水と食料とエネルギーを成員にどう与えるか、という面があります。
そちらは「文明崩壊(ジャレド・ダイアモンド)」に詳しいですね。

そして精神的な問題は…こちらは大きいでしょうか?
水・食料・エネルギーがふんだんにあるのに精神的な問題だけで文明が崩壊したことはあるでしょうか?
確かにイースター島が木材の浪費を止められず自滅したのは精神的な問題ともいえるでしょうが…

イスラム教はかなり「人間の飼育」という面では優れた技術に思えます。
ただし、中国文明も繰り返し崩壊しましたが、大きな枠としては存在し続けていました。それには気候帯・土壌栄養素の供給なども大きいと思いますが…

精神について、「物質的な崩壊を起こさないよう森林資源・土壌が持続可能であるようにする」ことと「群れ自体を安定させる」の両面がある、というわけですか。

22

言葉を聞いてもらうのは、それ自体がとても困難なことです。

内容より先に「同じ群れ(上位者)」であることを示さなければ聞いてもらえないのでは?
耳を傾けるふりはしていても内容は頭に入らないのでは?
意識は聞こうとしていても感情部分は聞かないのでは?

その入り口を作るのが難しいですし、逆に同じ群れだ、というメッセージを強く与えることで内容すらごまかせる…それが言葉というものでしょうか。

ネットにおいてはテキストのみとされますが、だからこそ逆に同じ群れだ、というメッセージによって相手に話を聞かせる技術が重要になってしまうのでしょう。

それらと関係ないのはきわめて記号論理学に近い数学の文章だけでしょうか。

21

授乳延長という避妊法はなぜ無視されているのでしょう。
それ以前にどれぐらい効果があるのでしょうか?
人工物を使わず簡単で安全に避妊できるなら非常に有用な知識だったのでは?

カトリックはそれにも反対なのか、それとも知らないのか…カトリックが事実上月経周期以外の避妊を禁じていることは聞いていますが、禁じているのはコンドームやピルなど人工的な方法?

20

人間が好む考えの一覧?

他にもたくさんありそうです。

19

昨日言った極右自民は、明日からやっても別にいいわけです。

この民主党中心連立内閣が長期安定政権となって国民が豊かになる、と思っている人は誰もいないでしょう。
少なくとも経済は悪化し、不安と不満は増しているはずです。
そこで極右化した自民党がカリスマを押し立てれば次の選挙で圧勝できるかもしれません。

最初からこの政権交代はそれを狙ってやったんだ、としたらすごいのですが。

といっても今の自民党の思考停止・人材難もどうしようもないようですし…幸いにも、というべきですね。

18

この政権交代は、ある意味事故のようにも思えます。

小沢氏の秘書が逮捕された直後、小泉元首相・石原都知事・橋下大阪府知事の三人のうちの誰かを党首とし、新保守・新自由のワンフレーズを叫んで解散していれば自公が勝てていたのでは?

民主党は本当には誰も支持していません。徹底的に。
あくまで今回は、麻生自民があまりにも不人気だったからでしかないです。

そして確かに格差が話題となっていましたが、それに対する反発もサイレント・マジョリティには非常に強くあったはずです。

攻撃的なカリスマ性を利用し、石原氏が最近の都知事選で大勝したフレーズをもじって「反省しろよ自民党、だけどやっぱり自民党」や印象的な書名「日本ほど格差のない国はありません!」などを連呼し、また「自助」「勤勉」「道徳」など短い言葉を連呼し、

など攻撃的な言葉を強く叫び、極右に徹していれば…それこそインターネットでの、「その一回が命取り」などのフレーズを利用してもよかったはずです。
これが強烈に人気を得られることは保障できます。
人間…いや、ホモ・サピエンスという動物にとっては道徳・危険などで刺激されるのは非常に強い効果を生むのです。

それをやられていたら自民が大勝していた可能性は非常に大きいでしょう。
いや、僕はどれも大嫌いですが、僕が嫌いだということとホモ・サピエンスという動物が好むということは別の話です。

というか小泉郵政選挙であれほどの大勝をもたらしたポピュリズム手法は今回どこに行ったのでしょうか?
あれほど「何もしなかった」ことが僕には不思議に思えます。

また、今回の政権交代には、共産党が今までのようにネーダーとならなかったことも大きいはずです。
逆に共産党に発言の機会を多く与え、「民主党は貧者・平和の味方ではなく大企業・米軍の味方、本来新自由主義・軍国主義の本家だ」と強く主張さるのも自民党から見れば有効な戦術だったでしょうが…

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動きをデジタル情報にする機械で、達人の太極拳や空手の型を電子情報にすることができるそうです。
それを三次元格闘ゲームに使うこともあるとか。

でもそれは、要するに位置検出センサーを体の要所に貼り付けて動くだけですから、それこそフィットネスジムで客にくっつけ、同じ体重・体格で算出された「正しい動き」とどう違うか比較しつつ動く、ということもできるのでは?
それができれば革新的な早さでさまざまな武術の型を学べると思うのですが。

ゴルフなどスポーツにも応用できそうです。

16

奈良・平安時代の庶民の生活は貧窮問答歌と防人歌以外見たことがないです。
安全保障や農業技術・交通インフラなど技術のための労働集約などは、本当に政権は全くやっていなかったのでしょうか?

むしろ空海など僧が治水や病気治癒などをした、という話が多いですね。

15

理性とは何でしょうか?

店先のパンをそのままとって食べるのではなく金を払って家で食べるのが理性?
でもそれは、犬でもしつければできるのでは?

気に入らない人間を殴るのではなく罪を着せて陥れるのが理性?

言語と理性の間にはかなりの開きがあると思います。
言語は擬人化、物心二元論、目的論を基とし、自省や所有・目的などが文法の髄まで染みついています。

コンピューター言語は理性的でしょうか?
でもコンピューター言語で、現実の世界を完全に再現することも、現実の世界に適応した生活者を作ることもできません。

ある意味コンピューター言語である、DNAがたんぱく質を組み上げる「言語」は理性的でしょうか?
これ以上ないほど自然のものであり、それでいて徹頭徹尾デジタルな構造ですが。
まあ人間はそれについて何も知りません。

最も理性的なのは、論理・数学の世界でしょうか。
でも全ての物事を、たとえばリスクを統計的に処理できる人はどれぐらいいるでしょう。
それどころか言語化できる世界でも、裏と対偶の区別がつく人はほとんどいないのが実情です。

スポックやデータは本当に理性的な存在でしょうか?

14

自分が一年に食べる食料全部はどれぐらいでしょう。
それが必要とする田畑全部…肉はその飼料も含め…はどれぐらいでしょう。
さらにそのための水や石油…

それに洗剤と繊維を加えたら、僕はどれだけの畑を持っているのでしょう。

自給自足生活をするのに最低限必要な面積は…気候にもよりますが…どれぐらいでしょう。

農耕牧畜なしの狩猟採集生活なら?
また最低限の牧畜だけの半遊牧なら?

個人的には自然の中の自給自足に憧れはありますが、インターネットとブックオフでの立ち読みをあきらめるのが辛くて無理です。

13

人間が宝石、すなわち「透明な石」を好むのは、もしかしたら透明な石でできた天然のレンズを点火に使っていたからでは?
ものすごく昔の、文明以前の人類にとっては「火を熾す」ことはきわめて重大なことだったはずです。
だとしたら、長いこと木をすり合わせたりしなくても日光を集中して点火できる天然、または石器技術の応用で作られたレンズがもしあれば、それはとてつもない価値があったはずです。
といっても、天然のガラスは文明以前の人にとっては石器の材料としても重要だったはずです。

また、レンズを点火に使うことがそれほど昔からあったなら、どこからも出土しているはずですし、レンズ製作技術がもっと早くから発達して顕微鏡や望遠鏡ももっと早くできていたはず…
やはりそうではなかったのでしょうか?
レンズ製作は色々な意味できわめて高い技術が必要ですから。

本当は、レンズと鏡を自在に使えれば火を使わなくても何でも加熱できたのですが。

でも火を用いずにレンズや鏡を作ることは大変なので、ある意味矛盾していますね。
いや、単純に最上の石器材であった黒曜石の延長と考えるのが正しいでしょう。

ガラス加工自体はかなり古く、少なくとも文明と同じ古さで行われてきました。
その中で、多量のミスによる「レンズ」があったはずです。

また全くの天然で、水晶が磨かれたこともあったでしょう。
人間が水晶を磨くときも、玉があったのですからその失敗でレンズもあったでしょう。
さらに水玉がレンズになることはもっと多かったでしょう。

なのになぜ顕微鏡も望遠鏡もこれほど発明されなかったのでしょう?
微生物や遠い星の世界を、なぜこれほど求めていながら、それを本当に見ようとはしなかったのでしょう…

それを言うならレンズができてからも、あまりに長いこと顕微鏡も望遠鏡も実用化されませんでしたが。

あともう一つ、「透明な石」で重要な仲間があります…岩塩です。
岩塩は海から遠い陸で暮らす動物にとって…人類もそうです…きわめて重要です。
人類が火を手に入れる前から、岩塩の価値は大きかったはずです。

というか初期人類の生活で、岩塩や黒曜石など価値が大きく得られる場所が限られるものがどう関わったかは結構重要でしょう。
それらが出る「土地を縄張りに」定住すれば、交易が機能すれば常に豊かな食料を得ることができます。
でも定住すると、特に糞尿や死体など廃棄物が土地に蓄積されます…埋めるなど正しく処理をしなければなりません。
水も出ればいいのですが、出なかったり岩塩鉱の影響で塩水しかなかったりしたら、真水も交易対象にしなければ生存できません。
また定住すれば襲われるリスクも大きくなります。
初期人類は放浪生活をしていたといわれていますが、そのあたりについてもっと考えるべきでは…というより、岩塩・黒曜石の鉱山があったと思われる地域の発掘は?

他にも川が浅く狭くなったところも、そこに網や〈やな〉を築くことで安定して大量の食糧を得られる、岩塩鉱に匹敵する定住価値がある場になります。

他に「透明な石」にどんな価値が?
「透明な石」が珍重されたから魔術的に重要とされたのか、それとも魔術的に重要だから珍重されたのか、どちらでしょう。

12

球技で最低限プレイできるまでの障壁が一番少ないのは何でしょう。そう考えてみたことはなかったです。下手でも最低限ルールどおりプレイできる最低技術は…

人間、ボールを投げる・蹴る・抱えて走る、棒を振り回すことは大半が多少ならできます。

バスケはドリブルが最低限できるだけでもかなりかかります。最悪ならドリブルせずパスだけで回してもいいのですが。
バレーボールはスパイクはもちろん、落とさないでレシーブするだけでもかなり練習が必要です。
サッカーはちゃんとパスやドリブルをするには長時間の練習が必要ですが、ただボールを蹴るだけなら誰でもできます。
ハンドボールが普及していないのは…?
意外とラグビーは抱えて走る、投げる、蹴るだけで、そういう意味では入りやすそうです。ただしルールがやや複雑で、安全にタックルするのが難しいですか…ラグビーの、タックルやスクラムをなくし手を広げての通せんぼだけにした子供版があれば不器用な子供もできるかもしれません。まあ逆に体重と走る速さといういいわけ不要な運動能力だけが出てきそうですが。
アメフトはあまりにルールが複雑ですね。
アイスホッケーは元々アイススケートができなければならないので参入障壁が高すぎます。
野球はキャッチボールは割と簡単で、バットで打つことは、レベルが低くていいならかなり誰でもできます。ちゃんとボールをとるには確かに高い技術が必要ですが、どちらも技術が低いままでも最低限遊ぶことはできます。
テニスもルールを簡略化…してもテニスである程度でも狙ったところにボールを飛ばすのはかなり練習しないと無理ですか。
さらに簡単なのがキックベースですね。
投げる取るだけのドッジボールが一番簡単なのは疑いないです。

11

国民総背番号制がなぜ悪いのか、ちゃんとした説明はあるでしょうか。

官憲が国民を監視し、自由を奪うのが怖いから?
では今は本当に自由でしょうか?

単純に、ヨハネ黙示録に番号による弾圧があるからでしょうか?

いや僕が知らないだけで、国民総背番号制でナチスや共産主義国、その他独裁国が残虐な支配に成功した例が多くあるのでしょうか。
でもそれらのケースは、国民葬背番号制をなくせば簡単に打倒できたような代物だったのでしょうか?

国家が牙を剥いたときに抵抗できなくなるから?
抵抗権を主張するならば、ある日警察と自衛隊が憲法と自由を全否定して国民を弾圧しても、十分な数が集まればレジスタンスができるだけの武装を国民全員に認め、武器を配るべきです。
肥料と灯油の混合爆薬を起爆させるには、電気機器や水銀体温計・蛍光灯をどういじればいいかの情報でも十分でしょう。

今の日本の自由・人権は「自衛隊と警察が憲法を守ってくれているから」に過ぎません。今日から憲法はやめた、自由はなくす、と自衛隊と警察が宣言したとき、日本の市民が武器をろくに持っていない状態を思えば国民背番号制などあってもなくてもさして変わりません。

抵抗権・武装権について日本の民主主義は正面から向き合わないですね。

10

温室効果ガス25%削減って、普通に省エネや、現状の延長での風力・太陽光でできるでしょうか?
本気でやるなら海…海藻養殖いかだバイオマスしかないのでは。

核融合・宇宙太陽光発電(自己増殖性ナノマシンか軌道エレベーターが前提)は十年じゃ無理でしょう。

9

いじめに対して、なぜ復讐殺人が抑止力にならないのでしょう。
ここで疑問…いじめによる死は三通りあるはずです。

  1. 自殺。それは時々報道されて大騒ぎになっては忘れられるのを繰り返します。

  2. いじめがエスカレートした殺人。
    マット死ぐらいしか思い出せません。が、実際にはたくさんあって事故として処理されているのでしょう。

  3. 復讐による殺人。これも報道例が思い出せません。

報道例が思い出せないのは、存在しないから・報道しないから・報道されても忘れるからの三つの説明が考えられます。
存在しない理由としては…いじめには「群れる動物として下位者を支配する技術」が無意識に用いられているため、動物として上位者を攻撃できなくなるからでしょうか?
報道しないのは真似を防ぐため…だとしたら、なぜ模倣自殺が増えるとわかっているいじめ自殺が報道されるのでしょう。
報道されて忘れているのでしょうか。

さらに、よく考えてみるとなぜ?と思うのが、なぜ忠臣蔵は一度だけなのでしょう。
江戸時代に改易お家断絶された大名家、更に大身旗本や大身の陪臣を含めれば膨大な数になります。
その中で、何らかの行動に出たのは赤穂浅野家家臣だけなのでしょうか。
他に、忠臣蔵の面々が当初主張していたように籠城して幕府と徹底抗戦、または城下で全員切腹、さらに責任があると思われる幕府高官や、さらには将軍襲撃まで実行した話は思い出せません。
いくつか、江戸時代に大名同士の争いでお家断絶に追い込まれた家の遺臣が相手の大名を襲って切ったという話を聞いた覚えもありますが、少なくとも籠城しての抗戦・公然と幕府に宣戦布告した話は思い出せません。
なぜ?

考えられる理由は

  1. 改易・お家断絶は家臣にとって、大して害にはならない。皆新しく領土を引き継いだ大名などに雇われ、不名誉などなく今までどおりに暮らせる。
    赤穂浅野家が特殊。改易された何千何万の家々と赤穂浅野家は全く違う事情があり、赤穂浅野家の遺臣のみ何かしなければ武士ではないとみなされる状況となっていたからああなっただけ。

  2. 直後から、幕府にとって危険分子となる遺臣は常住坐臥首筋に刃を突きつけられ縛り上げられるに等しい厳重な監視下に置かれ、最終的には闇から闇へ家族親族もろとも皆殺しにされる。

  3. 宗教的な精神支配によって、「幕府に逆らう」ことは武士たるものの頭脳にかけらも浮かぶことはない。

  4. 実際には籠城全滅を含めて結構あるけど僕が知らないだけ。

どれでしょう?

8

獄中から冤罪を訴え、無実を示す証拠が出ても裁判所が

「確かに証拠は被告人の無実を示している。
だが、被告が冤罪を訴え、それがマスコミによって広まったことにより、警察・検察・裁判所に対する国民の信頼が大きく失われた。
また、自分の記憶という「私」の正しさを、警察という「公」の判断に優先させる心証がけしからぬ。判断するのは「公」であり、「私」がそれを覆すことなどあってはならない。「公」は神聖にして無謬なる真実の独占者なのだ。
あくまで警察の主張どおり自らの記憶をねじまげて罪を認め、心から反省して刑に服することが罪を問われた国民の義務なのだ。
証拠や被告人の記憶よりも警察・検察・裁判所の判断のほうが真実であり、客観的な真実よりも警察・検察・裁判所の無謬性のほうが社会維持にとって重要である。
百歩譲って被告人が主張するように、冤罪が晴れることが正義だとしても、それは「私」の正義でしかなく、警察・検察・裁判所の無謬性という「公」の正義より上ではありえない。
よって被告人を改めて、内乱罪で死刑に処す」

と言ったらむちゃくちゃでしょうか。筋は通っています…間違いなく警察・検察・裁判官の本音はこうでしょう。

逮捕された者が無罪を主張すること自体が「警察は絶対に正しくなければならない」という「公」を支える柱を崩す行動である以上、実質的に内乱行為に他なりません。現実に反省の意がない、と罪は重くなります。

だから冤罪を主張する者、そして冤罪の可能性がある者は拘置所内で絞め殺して自殺したことにすればいいのです。
もちろん別の真犯人が判明したら、その真犯人も証人も警察が暗殺すればいいのです。
外部で**は冤罪だと主張する人も警察が暗殺すればいいのです。
そのほうが冤罪の存在を認めて警察・検察・裁判所の無謬性が損なわれるより、国にとってはいいのでは?(ここでの「いい」は全部「国にとって」ですが、「国にとっていい=いい」を当然とみなす人も多いはず)
冤罪をなくす方法としては、取調べの可視化などよりよっぽど楽で国の論理から言えば善です。
さらに「李下に冠を正さず」を法とすれば、疑われた時点で有罪です。元々日本に推定無罪などないのです。

そうそう、警察には暗殺部隊はいるんでしょうか。いないはずがないとも思えますけど。

冤罪を受けた者は、素直に認め、謝罪し、罪に服する道徳的義務があるのでしょうか。
個人の記憶より公の決定のほうが真実である、というのが「公共」「法治」の論理なのですから。
……冤罪で死刑判決が確定した人が脱獄した場合、それは道徳的に「罪」でしょろうか?
脱走中に(当人の活動でないにしても)無罪を証明する決定的な証拠が出たとしても、やはり逮捕し脱獄の罪は別に科すべきでしょうか。もしそれが、処刑命令を探知しての脱走だったとしても正当防衛は適用できないのでしょうか?

それを道徳的に罪とするのが「公共」「法治」「近代国家」の道徳でしょうか。
冤罪が普通なのと矛盾しない道徳体系とは?
徴兵同様社会にとって必要な犠牲?
そのほうがいいでしょうか?

またこんな話も考えられます。

死刑確定者が脱獄し、その逃亡中に無実の証拠が出ました。
でも警官は脱獄者を射殺しました……曰く「無実の証拠が出たことは知っていたが、見つけしだい射殺せよとの命令は解除されていなかった。脱獄自体が死に値する絶対的な罪だ」

警官は正当なことをしたのでしょうか?
それが正当だと国民全員納得しなければならないのでしょうか?

7

僕はいつの時代にもいる愚かな悲観論者でしょうか。

では、今の非正規社員は十年後二十年後どうなっているでしょう。

三十年後も石油は十分にあるでしょうか。代替エネルギーはうまくいっているでしょうか。

6

南京大虐殺で家族を殺された人にとって、その苦しか見えないのは当然です。
でも戦争で家族を失った日本人にも、同じくそれしか見えないほど大きい苦はあるはずです。
いや、東條英機の子供にも、本人しか見えないほど大きい苦はあるはずです。
どうすればいいのでしょうか?

南京大虐殺遺族の苦だけを肯定し、その立場で政策を決め、日本人は全員その苦のために謝罪し、東條英機の子供の苦は完全に無視すればよいのでしょうか?
苦は苦で受け止め、誰の苦も否定しない、政策に苦を入れない、とするしかないのでは?

僕が前から考えている性格の悪い話、「免田氏と本村氏の死刑廃止存続議論」と同じことでは。

他のあらゆることで、無視される苦は驚くほど多いです。
犯罪で加害者の更正と人権ばかりで被害者が無視される頃もあれば、いまだに加害者家族の苦は無視されているというより事実上世間連座制で刑罰が科されているも同然です。
さらに刑務官・殺人事件などの司法解剖をする人、現場を掃除する人なども大きな苦を抱えているはずです。

エロゲーの存在自体を苦とする人もいます。
同時に、現実には認められない自分の性に苦しみ、エロゲーのおかげでかろうじて現実の犯罪を行っていない人もいるかもしれません。
正確にはわかりませんが…現実に認められない性を持つ人は例外なく良心がないのかもしれません、わかりません。

本質的に、人を「敵」と考えてしまえばその敵の苦は無視できます…家畜を食うより簡単に。
南京大虐殺で家族を目の前で殺され、自分も一生のこる傷を受けたりした被害者に、東條英機の子の苦を思えといっても無理でしょう…その子は「敵」でしかないのですから。
でも…

他にも僕は、そして人々は、どれだけの苦を見落としているでしょう。

5

人間には動物的な部分のほうが大きい、まして子供のほとんどは動物的な部分で、言葉が通じる理性はわずかしかないなら、体罰なしでどうやって子供を躾けられるでしょう。
言葉で叱ることができるのは理性部分だけです。

体罰ではなく無視を使えばいいのでしょうか?

4

SFなどのパターンとして、人工知能に支配される人類というのを嫌がるのは単なる人類の支配欲では?
それ自体の証拠、正しさの根拠はないのでは?

進化によれば、「正しい」のは「生き残った」ということです。
それも何百万年も何億年もかけてミスコピーを積み上げ、何万何億というライバルの中で。
その多くは幸運に過ぎません。

僕は伝統も理性も、超コンピューターも聖書も「正しい」…人類文明が頼り切っていいとは思っていません。
ではどうしろと?にはこう答えます…第二の地球を何億も作る、互いに連絡できないように。
どれかは生き延びるでしょう。その生き延びたやり方が正しいのです。

そして、今のこの、六十数億人の群れを正しく運営するための「試行錯誤」は存在しません。
古典から学ぶのはいいですが、それは数十万の群れのためのものです。

播種船を急いだほうがいいのでは?

伝統も理性も、神と祭祀長の連絡の実在も信じないなら政治は?

プラトンによる批判を考えると、それこそ「くじ引きで何年か独裁」が一番、少なくとも最悪の場合の害が少ない気がします。

民主制は集団心理の暴走の最悪が悲惨です。

王制はバカ王ができたら悲惨です…氏か育ちか、どちらか一方でも正しければ大丈夫なのですが、両方ある程度しか関わらず本質は偶然だとすると、遺伝子と教育の双方をどれほどよくしてもバカ王は出ます。さらにどうしても周囲の人の権力欲が絡むので教育が悪くなりやすいです。

エリート集団合議は何もしない・前例踏襲・集団力学の暴走が避けられません。

神権政治は畢竟エリート集団合議です。

テストエリートは実際の世界で起きる多くのケースに対応できないことが多いです。

くじ引きは優れた人になる確率も低いですが、最悪の人を選ぶ確率も非常に低いです。
何より、他の方法だと全て支配者は権力欲の強い人になりますが、くじ引きだと権力欲も普通の人が選ばれることになるのです。
完全な人が完全な判断をすれば国は良くなる、という命題を否定してしまえば…完全な人、完全な判断の存在を否定すれば…普通人をくじ引きで選ぶのが一番、悪いほうに行っても大してひどくはならないのでは?

人間の体の底とか伝統とか、神秘から来る何かとか、深い宇宙の生命とかそういうのは無条件に正しいという考えもありますが、僕はそれにも反対です。

3

もし西洋近代がなかったら、数千年後に次の氷期で文明は…人類は滅んでいたのでしょうか。
それとも何百万年も、何度も滅びかけながら持続していたでしょうか。

近代西洋の衝撃がなかったときのイスラム・中国・日本・中南米それぞれが何百年も何千年もそのままだったらどうなっていたかも、是非見てみたいことです。
やはりずっとそのままだったのでしょうか?
それともどの文明も、もう数百年で自力で近代化できていたでしょうか。

というより近代化の条件は、なぜ中国でなくヨーロッパだったのか…この問題ばかりは…

2

点滴灌漑を、ゴムホースのような高価な材料ではなく安価=低エネルギーで作れる資源でできたらいいのですが。
竹・ヨシなど中空植物、素焼き土器など使用エネルギーが小さいものなど…

それでできるのだったら、なぜ昔からやられていなかった、という問題が出てきますね。

といっても、別に「伝統技術」は当時の素材について全てを試しつくしたわけじゃありません。
古代ローマの技術でもバタフライナイフやサムホール式のロックのない折りたたみナイフは可能だったでしょうが、そんなものありませんでした。

1

僕が似たようなことを考えてしまうのは、それが正しいからではなく今の僕の脳の構造が、まるで同じものを出す印刷機のようにミーム・マシーンと化しているからでは?
それこそ場所に対応して特定のことを考えてしまうことさえあります。

また、ある場所に行くと高い確率で、非常に強い切迫感があるけれど量が少なく出た感じがしない下痢になることもあります。
どちらも僕の、頭脳と体がある意味自動機械化しているのでは?
それとこれとは事実上同じなのでは?

でもだとしたら、僕には独立した思考力はないということになります。

そして思考力がないのは僕だけでしょうか?
僕が何かの言葉を思い出すのは自発的にでしょうか、どんなメカニズムででしょうか。
ある言葉を頭の中で考えるのは、「ミームに操られて」いるのでは。

そして行動することも…

さらに、僕の考えのどれだけが、僕の境遇・これまでの人生によるものなのでしょう。
僕が論理的に考えて出した結論だと思っていることも、境遇が違えば、またちょっと境遇が変われば一変するのでしょうか。
それこそ宝くじ…僕は確率計算ができるため買わないので当たる可能性もありませんが…が当たっただけでも。

僕はどれほど信頼できる学習・思考システムなのでしょう?
僕以外の誰であろうと?